織田家 信長公記

信長を襲った刺客を処刑!鋸挽きの恐怖とは~超わかる信長公記101話

信長の足跡を『信長公記』をベースに見てみよう! という本連載。

今回は割とグロい話なので、苦手な方はご注意ください。

織田信長の生涯を追う上での重要性はさほど高くありませんし、歴史の流れとしても大事件ではないのです。v;飛ばしていただいても問題はありません。

 

鉄砲の名手・善住坊をひっ捕らえ

浅井・朝倉という数年来の敵を倒して間もなく、鉄砲の名手・杉谷善住坊が織田軍に捕らえられました。

原因は、元亀元年(1570年)の出来事です。
当時、信長は浅井・朝倉氏と対立し始めたばかりでした。

このとき、越前の朝倉氏を攻めようとして浅井長政に帰路を塞がれ、琵琶湖の北側ルートで京都に戻っていた信長。
そこからさらに岐阜へ帰る途中、信長は六角氏に雇われた善住坊に狙撃されていたのです。

詳細は以下の記事にありますが……

杉谷善住坊、火縄銃で信長を狙撃!超わかる信長公記69話

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幸い、弾は信長の身体をかすめただけで、大事には至りませんでしいた。

しかし、狙撃というのは当時かなり斬新な暗殺方法です。

鉄砲が普及し始めた当時、もしも似たようなことを企てる者がいれば、なんとも煩わしいことになるでしょう。
再発防止については、十二分に留意しなければなりませんでした。

 

罪人を穴に埋め、首だけだして……

現代でも、戦争や他の暗殺と比べて、狙撃はローリスクハイリターンになる確率が高くなります。
それ故に狙撃手が敵に捕まった場合、恨みを非常に買いやすく、私刑が行われることも珍しくなかったようです。

信長も、戦や外交とは違った意味での怒りが強かったのかもしれません。

そのあたりを加味されてか。
信長本人の考えで、善住坊には”鋸挽(のこぎりび)き”という刑が科されました。

この刑は、まず罪人を縦穴に入れて肩までを埋め、首だけ出させておきます。
そしてその横にノコギリを置いておき、通行人や被害者の親族などに、罪人の首をノコギリで1~2回引かせる……というものです。

当然、木材よりも人の首は切りにくいので、罪人はじわじわと苦しんで死ぬことになります。

これだけ聞くと
「ひどい……信長はやっぱり残虐な奴なんだ!」
と思ってしまう方がおられるかもしれませんが、鋸挽き自体は戦国時代よりはるか昔から行われていた処刑法です。

日本では少なくとも平安時代から存在しており、中国やヨーロッパでも実行した例があります。

また、反逆に対する刑罰は、どこの国でもかなり残虐なものを用いる傾向が強いようです。これはやはり、見せしめ・再発防止のねらいでしょう。

 

死体に刑罰を加えるのはなぜ?

例えば、中国・朝鮮では凌遅刑(りょうちけい)という刑罰がありました。

中国の場合は、生きたまま少しずつ肉を削いでじわじわと死に至らしめるというものです。
朝鮮にもこの方式はありましたが、最も重い罪の場合は墓の中から罪人の遺体を掘り起こし、四肢を切断して晒し者にするという方法でした。

「死体に刑罰を加えても、本人の意識がないのだから意味がないじゃないか」
と思う方もいらっしゃいそうですね。

これは、おそらく儒教の考えからきています。

儒教の経典の一つ・「孝経(こうきょう)」に、次のような一文があります。

「身体髪膚、これを父母に受く。あえて傷つけざるは、孝の始めなり」

現代の日本でも、ご年配の方などは「親からもらった体なのだから、大事にしなさい」と言うことがありますよね。
それの元ネタのようなものです。

現代刑法の”死体損壊罪”も、「死後の人権」の他、孝経の考えが根底にあるかと思われます。

つまり、死体に刑罰を加えるのは、次のような意味合いになるわけです。

「本来なら皆が大切にしなければならない体に、死後も罰を受けるほど悪いことをしたのだ」

 

鋸挽きを科した信長は残忍なのか

ヨーロッパでは反逆者に対する刑罰として、
【首吊り・内臓抉(えぐ)り・四つ裂き】
をワンセットで行っていました。

いずれも字面通りですので説明は省略しますが、凌遅刑同様に残虐な刑罰であることは間違いありません。

特に凌遅刑については近代まで行われており、写真が現存しているため、安易な検索はおやめになったほうがよろしいかと思います。

画像検索はもちろんですが、通常の検索でも写真付きのWebページが出てきてしまいますので、見たい方は自己責任でお願いいたします。

閑話休題。
善住坊を鋸挽きにしたことだけで「信長が残虐である」と断じることはできません。

比叡山焼き討ちなどと総合して考えたとしても、やるまでには相応の理由があるのです。

現代の価値観で戦国大名や過去の事象をはかってはいけない……という、一例になるかと思います。

 

鉄砲伝来之事

狙撃の話が出てきましたので、最後に鉄砲普及の話を少し。

明智光秀が越前の朝倉義景のもとへ身を寄せたとき。
光秀があまりに上手に鉄砲隊を駆使して敵を倒したため、義景が驚いたという話があります。

そのときの感想が
「実際に鉄砲を使いこなせるとは素晴らしい」
というものだったとか。

16世紀初頭は、当たり前ではなく驚きという存在だったようですね。

軍記物である『明智軍記』に掲載されていた話ですので話半分で聞く必要はありますが、
・鉄砲が1543年より以前から伝来していた
・光秀が堺で鉄砲術を身に付けた
というようなことが示唆されています。

詳細は以下の記事にありますので、よろしければ併せてご覧ください。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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