ジョン (イングランド王)/wikipediaより引用

イギリス

失政ばかりでマグナ・カルタ(大憲章)成立! 失地王ジョンのダメっぷり

「立派な人にあやかって、同じ名前や同じ漢字を使った名前をつける」という風習は、広く世界中でみられる習慣です。

一方、真逆の理由で避けられる名前もあります。「あんなヤツになってほしくないから、絶対にこの名前は避けるべき」と考えられているものです。
本日はその一例といえそうな、とある王様のお話。

1167年(日本では平安時代・仁安二年)12月24日は、イングランド王であり失地王でもあるジョンが誕生した日です。
「ジョン王」と呼ばれることも多いですね。

西洋の王様で「◯世」がつかないのも珍しい話で、そこには理由がありました。かなり悪い意味で。

 


当時の英国はフランスより下の立場にいた

ジョンは、父であるヘンリー2世の末子として生まれました。

その頃ヘンリー2世は王妃アリエノールとの仲が冷え切っていたため、ジョンも母の愛を受けることがほとんどなかったといわれています。
父のヘンリー2世はそのことを憐れみ、ジョンを異様な意味で可愛がりました。

当時、イングランドの王様はフランス王の下の立場で、フランスの一貴族のような扱いでした。

となると、当然イングランドが大陸側に領地を持っていたわけです。
ヘンリー2世はジョン以外の三人の息子に相続させるよう命令され、その通りにしました。

このときジョンは2歳になる前だったので、当たり前といえば当たり前の話ですが、こうしたこともヘンリー2世が末子を憐れむ理由になったのです。

「お前は”領地なし”だな」というエピソードから、後世ではジョンのことを「失地王」とも呼ぶようになりました。

ヘンリー2世はこのときのことをずっと覚えていたらしく、ジョンが6歳のとき、ヘンリー2世は征服したばかりのアイルランドや、他の息子に与えるはずだった大陸の領土をジョンの取り分にしようとしています。
アイルランドはともかく、よくわからん理由で領地を減らされそうになった他の息子たちは、「うちの親父アホじゃねーの?」と背かれました。そりゃそうだ。

ここまで可愛がられると、長じてからのジョンはさぞトーチャンに味方すると思いますよね。
しかし兄のリチャード(後のリチャード1世・獅子心王)のほうが優勢と見て、あっさりそちらについています。ひでえ。

 


リチャード1世の死亡で転がり込んできたイングランド王の座

22歳のとき、貴族の娘との結婚で領地を得たジョン。
父の死後は、リチャード1世からもイングランド内でいくらかの領地をもらい、ようやく基盤ができました。

とはいえ兄の忠実な臣下になった――というわけでもないのが、また不可解なところ。
リチャード1世が第3回十字軍へ参加するため留守にしたとき、「フランスにいろ」といわれたにもかかわらず、勝手にイングランドに帰ってしまっています。

さらに、リチャード1世が捕まったときには「今のうちに兄貴から王位奪ってやるぜ!」と企むんですから危ない。

このとときは貴族たちの協力が得られずに話はポシャり、解放されたリチャード1世にも睨まれ、ダメダメっぷりを披露します。

しかし、天は彼を見放しません。
5年ほどしてリチャード1世が亡くなり、ジョンはイングランド王の座に就いたのです。

王様になってからも、ジョンの奇行ぶりは続きました。

領地を広くするため、最初の妃と離婚して、別の女性と再婚したのですが……この女性はフランスの貴族と婚約していた人です。
つまり、人の婚約者をぶん取ったことになります。

現代でも裁判モノですが、当時だって当たり前に大問題。
フランス貴族に関わる揉め事のため、フランス王フィリップ2世の下で裁判が行われることになります。

ジョンは当初この出頭命令を拒み、フィリップ2世が「裁判に来ないんなら、お前が大陸に持ってる領土は没収ね^^」(意訳)と言い出し、実行したことで戦争にまで発展してしまいます。

 


結局何もうまくいかず、アイルランドやスコットランドへ

この戦争は、ジョンが唯一いいところを見せることができた場面でもありました。

当時、フランス中部のポワティエという町に、ジョンの母・アリエノールが滞在していました。
フランス軍がこれを知ってアリエノールを人質にしようとしたとき、ジョンは逆にフランス軍のお偉いさんを捕らえているのです。

これがきっかけで、フランス諸侯の多くがジョンの敵に回ってしまったのですが、ジョンの味方についた地域も「ジョン王は間抜けだから、俺らの権力が弱まることはないだろう」という理由だったとか。
つまりナメられまくっていたんですね。

その上、ローマ教皇とも揉めて、一時破門されたこともあります。

後のヘンリー8世は「だったら俺がトップの新しい教会を作ってやんよ!」と気にしませんでしたが、キリスト教がベースにある西洋社会において、破門は「身の破滅」に等しい状況です。

ジョンもこればかりは常識的な捉え方をしており、イングランド丸ごとローマ教皇の配下に入って破門を撤回してもらいました。
それまでの間に、さんざん悪あがきもしていますが。

やればやるほどフランスや教皇の下手になってしまったジョン。
次にウェールズ・アイルランド・スコットランドの支配に注力するようになります。まぁ、極めて近いですし当たり前の話でしょう。

しかしそれもつかの間、海軍を整えて大陸の領土を取り戻そうと画策し、結局、失敗してイングランドに逃げ帰っています。
誰か「反省」という言葉を教えてやってくれ……。

しかも領地が減った分をイングランドでの増税で補おうとし、国内での不人気も招いております。
後にイギリスは十三植民地へ似たようなことをしてアメリカ独立を招いていますけれども、このときの教訓を活かそうとか思わなかったんですかね……。

 

貴族たちが結束 ジョンを排除するためマグナカルタ

そんな状態で逃げ帰ってきたジョン。
いくら権力を振りかざそうとしても、もはや民衆も貴族も彼の言うことを聞きません。

それどころか貴族たちは結束してマグナ・カルタ(大憲章)を作り、ジョンにこれを認めるよう迫ります。

さすがにここは受け入れて和解するしかありません。

つまり、王様がアレすぎたために貴族や庶民が「ダメだこいつ……はやく俺たちの力でこの国を何とかしないと」と考えた結果がマグナ・カルタというわけです。教
科書では「初めて王様の権利を制限した法律」として太字になっている単語ですが、事の経緯を見ると(´・ω・`)な顔になってしまいますね。

ジョンも黙って権力が失われるのを見ていたわけではなく、ときの教皇・インノケンティウス3世に頼んで「マグナ・カルタの破棄」と「それに関わった(=ジョンに逆らった)貴族の破門」をしてもらおうと、またしても悪あがきを続けています。

これによって貴族たちはジョンの上司にあたるフランス王太子ルイを担ぎ出して抵抗。
一時はロンドンを占拠されるという大騒ぎになりました。

 


王族にジョンは複数いるが王にはなっていない

「首都が占領される」ってほとんど国家滅亡に等しい話ですが、まだイングランドは終わりません。

1216年にジョンが赤痢で病死すると、貴族たちは手のひらを返してジョンの息子・ヘンリー3世を支持しはじめ、ルイを追い出したのです。揃いも揃って節操なさすぎやで。

最近では「ジョンがイギリス海軍発展のきっかけになった」とか「リヴァプールに特権を与え、発展するきっかけを作った」ともいわれるそうですが、リヴァプールが本格的に発展したのは17世紀末~18世紀ですし、イギリス海軍が華々しい戦果を挙げるようになっていくのは、これまた教科書でおなじみのアルマダの海戦(1588年)あたりからです。

要は、ジョンの功績ではない、と。

歴史人物の評価が、何かの発見で真逆になることは珍しくありません。

今後の研究いかんではジョンもそうなる可能性があり……ますかね?

やはり同じ名前の王様は当分出てこないでしょう。
「ジョン」と名付けられたイングランドの王族は何人かいますが、誰も王様になっていません。

まぁ、名前のせいで王位につけなかった……なんてことはない、ハズ。

長月 七紀・記

【参考】
ジョン(イングランド王)/wikipedia


 



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