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【ルイ17世】
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肌は灰色がかり 爪は異常に伸びていた
それでもルイ17世は生き続けます。
恐怖政治を主導していたロベスピエールが処刑されると、入れ替わりに台頭した貴族の一人ポール・バラスに助けられました。
バラスはルイ17世の衰弱ぶりとあまりにひどい環境に驚き、新たに人を雇って部屋の掃除や着替えをさせ、医師にも診せてくれます。
そのときの記録はこうです。
「肌は灰色がかり、頬はこけ、目はぎょろりとしていた。
体中に青・黒・黄色のみみず腫れができていて、爪も異常に伸びていた」
バラスに雇われた新しい世話人は心ある人だったようで、ルイ17世を散歩に連れ出してくれました。
しかし、そのときも一人で歩けないほどの衰弱振りだったとか。
少しずつ扱いが良くなったおかげで、ルイ17世は徐々に周囲の人々へ心を開き始めました。
が、体はそれについていけず、外で遊ぶ許可が出ても、自力で出歩けなくなっていたといいます。全てが遅すぎたのです。
死因は結核と発表されたが……
この頃には一般市民へもルイ17世の受けていた虐待が知られており、そうした扱いをした人々へ制裁が下っていました。
一方で主治医の急死などによりルイ17世の治療は進まず、確実に弱っていきます。
唯一の慰めは、再び日の当たる部屋に移してもらえたことでした。
精神的に前向きになれたからか、少しは体も良くなったようですが……部屋を移されてから2日後の6月8日、激しい呼吸困難を起こした後に亡くなってしまうのです。
10才という儚い一生でした。
死因は結核であると発表されましたが、解剖の記録を見るととてもそれだけとは思えません。
比較的まともな部分だけを抜粋すると
「手首や膝に小さな腫瘍が複数あった」
とのこと。
当時の医学ですので、本当に腫瘍だったのかどうかも疑わしく、暴行によってできた瘤か、感染症の痕跡あるいは皮膚病のほうがありえそうです。
17世の兄も結核からの脊椎カリエスで亡くなっているため、兄弟ともに肺が弱かったのかもしれませんが。
別の可能性を考えるならば、ルイ17世が小児がん患者だったというのもありえなくはないですけれども……今となっては解明のしようがなさそうです。
ちなみにお決まりのパターンで、ルイ17世の生存説も長く囁かれました。
「死んだのは替え玉で、本人はどこかに逃げている」というものです。
そのため17世を名乗る人が度々現れ、世間を騒がせました。
2004年に両親の元へ
ルイ17世の遺体は解剖の後、共同墓地に葬られました。
解剖に携わった医師の一人がルイ17世の心臓を持ち去って保管していたため、これを使って近年DNA鑑定が行われ、共同墓地から遺体が発見されています。
生存説は完全に否定されました。
そして2004年、両親と同じくフランス王家代々の墓地があるサン=ドニ大聖堂へ再度埋葬され、無言の再会を果たしています。
心臓の方は今もクリスタルの壺に入れられて公開されているのですけれども、遺体に戻してあげたほうがいいんじゃないですかね……。
写真を撮ってそれだけ展示するという形も取れるでしょうし。
サン=ドニ大聖堂はステンドグラスでも有名なところなので、観光される方も多いと思いますが、その際は幼くして悲惨な最期を迎えた幼い王の冥福を祈ってあげてくださいませ。
外国人かつ異教徒の祈りが届くのかどうかはわかりませんけれども。
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長月 七紀・記
【参考】
安達正勝『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書)』(→amazon)
安達正勝『物語 フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書)』(→amazon)
エマニュエル ド・ヴァリクール/ダコスタ吉村 花子『マリー・アントワネットと5人の男:宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち 下』(→amazon)
世界大百科事典
岩波 世界人名大辞典
ほか