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【宇喜多秀家】
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関ヶ原の戦い
ずっと秀吉に引き立てられてきた秀家ですから、関ヶ原では当然、西軍に参加。
石田三成が表立って動き出すよりも先に、7月5日の時点で豊国神社へ参詣しており、気合の入れっぷりがわかります。
宇喜多家の兵力は1万6,000~7,000程だったと言われ、西軍では毛利家に次ぐほどの数でした。
そしてその毛利軍は”空弁当”で動かなかったのですから、西軍の中で最大兵力を有していたのは宇喜田軍といっても過言ではありません。
宇喜田軍はまず、上方に残っていた徳川軍の拠点・伏見城の戦いに参加し、その後、関ヶ原へ向かいました。
当日もよく戦いましたが、小早川秀秋ならびに四将の裏切りには為す術もなく、敗走しています。
秀家はしばらく伊吹山に隠れ、時を見計らって、なんと薩摩まで落ち延びました。
そこで三年間、島津氏の庇護を受けていたようです。
もちろん、家康は秀家を含めた西軍の諸将を捕縛するよう厳命しており、それによって石田三成らが捕らえられています。
秀家が逃亡に成功できていたのは、いくつかの幸運が重なったためでした。
まずひとつは、落ち武者狩りに参加していた矢野五右衛門という人物が、秀家を約40日も自宅に匿ってくれたことです。
現在も彼の子孫が同地にお住まいだそうで、記念碑を作り、このことを伝えています。
ふたつめの幸運は、五右衛門が非常に優秀な人物だったことでした。
彼は「秀家の正室・豪姫が実家の前田家に送り返される。まずは大坂の前田邸に行く予定だ」という情報を手に入れ、秀家を変装させて大坂の前田邸に忍び込ませたのだとか。
これがおそらく今生の別れとなり、秀家はそのまま船で薩摩へ向かったのでしょう。
そして最後に、島津忠恒・前田利長が家康に助命を頼み込んでくれたことです。
かたや薩摩で勇猛な大軍を抱える島津家、かたや外様一番の大大名である前田家。
秀家を死罪にすれば豊臣政権の根絶がより確実になりますが、島津と前田の二大勢力を敵に回す危険性に比べたら些細なものです。
こういて関ヶ原から三年が経った慶長八年(1603年)、秀家は死罪を免れることが確定。
一度駿河に送られた後、慶長十一年(1606年)4月に八丈島への流罪と決まります。
嫡子や一族の者が13名ほど一緒だったようで、秀家はこのときから髪を落とし、”休福”と名乗るようになったとか。
流罪になった身で用いた号であることを考えると、何とも言えない心境がうかがえる気がしますね。
元嫁・豪姫が愛の仕送りを
流罪というのは古来より
「本来は即座に処刑されるべきだが、命だけは助けてやろう」
という刑です
地元から遠く引き離された土地で、自分で衣食住を工面しなければいけません。
いわば生き地獄に等しい刑。
流刑先に到着するまでの間に落ち武者狩りや山賊などに遭い、命を落とす者までいました。
中には、護衛に付けられた者が罪人を殺すというケースまであったようです。
秀家は、ここでも幸運が働きます。
実家・前田家に戻った豪姫が頼み込み、秀家に仕送りをしてくれたのです。
ばかりか、秀家の子孫たちにも行われ、なんと明治時代に罪を解かれるまで続いています。
もちろん凄まじく遠距離の八丈島ですから、決して豊かな暮らしではなかったでしょう。
幸運といえば、八丈島の噴火に遭わなかったこともあげられます。
実は慶長十年(1605年)10月、そして秀家が流されてくる直前の慶長十一年1月に八丈島は噴火しているのです。
もしも少しタイミングがずれていれば、何らかの被害を受けていたでしょうね。
流罪になった後の秀家について、こんな逸話もあります。
あるとき福島正則の家臣が備前の酒を江戸へ届けるため、船に乗っていました。
しかし風向きが変わり、流されて八丈島にたどりつきます。
すると一人の老人がやってきて「あなた方は何をどこまで運んでいるのですか」と聞いてきました。
福島家の家臣たちが正直に答えると、老人はこう答えます。
「私は宇喜多秀家です。もしよければ、故郷の酒を少し分けてもらえないだろうか?」
家臣たちは迷いましたが、流罪になって不自由している相手にここで何もしないのも悪いと思い、少しだけ秀家に酒を分けてやりました。
ですが、良心でやったこととはいえ、勝手にやったことがバレればお咎めは免れません。
江戸へ着いた後、彼らは正直にこのことを正則へ報告しました。
すると正則は逆に家臣たちを褒めたといいます。
正則は三成憎しの一念で東軍についたとはいえ、小さい頃から秀吉に目をかけられて育ってきた人です。
西軍の諸将に対して温情ある振る舞いをした家臣を、咎める気にはならなかったのでしょう。
その後、秀家は静かに暮らし、明暦元年(1655年)に亡くなりました。
享年84。
流罪になった当時はまだ30代でしたので、人生の半分以上を八丈島で過ごしたことになります。
温かい気候が肌に合ったのか。それとも気を取り直して前向きに生きたゆえの長命でしょうか。
大坂の陣の頃も元気にしていたと思われます。
このことから近年、ネット上で
「宇喜多秀家なら、豊臣家の危機と知れば泳いででも駆けつけたに違いない」
とされ、戦国時代をテーマとしたファンサイトやゲームなどでネタとして用いられました。
面白い解釈ですが、事実ではありませんのでご注意ください。
当時の八丈島は外界とほぼ隔絶されていましたので、秀家が大坂の役を知っていたかどうかはかなりアヤシイです。
ちなみに、秀家のいとこかつ義理の兄弟である明石全登(あかし てるずみ)が、大坂の役に豊臣方で参加。
彼は関ヶ原の際、斬死しようとしていた秀家を止めて自分も生き延びたという人です。
その後は残念ながら主と再会できず、浪人になっていました。
秀家が八丈島ではなく、近畿に近い場所に流されていれば、全登ら宇喜多家旧臣が救出し、主従揃って参戦なんてこともあったかもしれませんね。真田信繁(真田幸村)のように。
彼の子孫は明治時代に東京へ移り住みましたが、そのうち数名が八丈島に戻り、今も秀家の墓を守り続けているのだそうです。
おまけ:子孫が熊本で武士になっていた
宇喜多秀家の別の息子が武士として存在していた――磯田道史先生が読売新聞のコラム「古今をちこち」(2013年8月28日)で明らかにしています。
内容をざっくりマトメますと……。
・宇喜多秀家には、三男とされる2歳の息子がいた
・関ヶ原で負けたことを知った岡山留守居の家臣が、その三男を連れて豊前国宇佐郡(大分県宇佐市)まで逃げ育てていた
・しばらくしてから地元・明円寺の斡旋で、熊本の細川家に仕官しようとしたものの、断られる
・15歳で「黒鍬」(土木作業員)として、名字もない一般人の「太兵衛」として採用
・その後、名字をつけていいと言われたが、さすがに「宇喜多」はまずいので「栗田」と名乗った
・太兵衛の子(秀家の孫)は百姓となって肥後国玉名郡長州村(熊本県北部)で農家をしていたが、またも没落
・さらにその子孫が熊本へ行き、細川家の足軽になり、殿様のタバコ係になって、ようやく武士に戻れた
・関ヶ原からは100年以上経っていた
という経緯だそうです。
この栗田家が、秀家の次男・秀継の用いた浮田(うきた)の名字を使えるようになったのは、明治三年(1870年)11月だったとか。
戦国大名というとはるか昔の人すぎて、現代人からするとフィクションのような遠さを感じるかもしれません。
しかし、こういった話を知ると「彼らが生きていた時代と現代は繋がっているのだ」という実感がわきますね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
渡邊大門『宇喜多直家・秀家―西国進発の魁とならん』(→amazon)