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信長の舅である斎藤道三か。
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あるいは周囲の人たちを暗殺しまくった宇喜多直家あたりか。
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今回注目したいのは、彼らの最期。
【信貴山城の戦い】で戦死した松永久秀(爆死ではない)や、【長良川の戦い】で息子の斎藤義龍に殺された道三は、戦国ファンにもよく知られております。
では、もう一人の謀将・宇喜多直家の死因は?
周囲に恨みを買いまくるような生き方でしたので、謀反や暗殺または討ち死になどの悲惨な終わりだったであろう……と思われる方も多いかもしれませんがさにあらず。
正解は「病死」、実は畳の上で死んでいるのです。
悪逆無道の限りを尽くしたとされる直家は、一体どのように生き、どのように死んだのか。
病気の話から入ることが多いこのコラムですが、今回は直家の暗殺人生から振り返ってみたいと思います。
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良家の生まれで放浪生活
宇喜多直家の祖父、能家は備前国で守護代を務める浦上氏の家臣で、お城(砥石山城)も所有する人物でした。
が、家中の権力争いで殺され、当時6歳の直家は父と命からがら逃げのび、放浪生活を余儀なくされます。
ゲームでいったらハードモードからのスタートですね。
そして成人した直家は再び浦上家に仕え、メキメキと頭角を現すようになります。
ここから直家の暗殺人生も始まったのです。
1549年直家は、主君の命令で砥石山を攻め、自身が生まれ育った城を奪還。
浦上家の中でチカラを付けていく直家を見て「アイツはやべぇ」と思った人物が中山信正です。
信正は直家にやられないようにと娘を嫁に出し、舅となりました。
しかし直家は、全く容赦をせず信正に謀反の容疑をかけて殺してしまうばかりか、ついでにじーさんの仇も謀反の疑いをかけて殺害。
さらには戦においても、直家は裏道街道を邁進します。
1561年の龍口城攻めでは「城主が男色家って聞いたんで美少年刺客を送っちゃえ」作戦を展開します。
これが見事にハマって相手の寝首をかき、直家はその混乱に乗じて城を攻め、難攻不落といわれた龍口城をいとも簡単に落としてしまいます。清々しいほどやで……。
さらに三村家親との戦いではスナイパーを雇って家親を暗殺。
当時としては最先端の鉄砲を使った、まさしくゴルゴばりの展開でした。
マニアとしか思えない殺しっぷり
かくして周囲の勢力を駆逐し、浦上家臣で随一の勢力となった直家――なんてサラッと書いてみましたが、直家に滅ぼされた松田家最後の当主「松田元賢」の正室は、なんと直家の娘です。
直家は松田家の重臣・伊賀久隆を寝返らせ、これと組んで城を攻めたのです。
元賢は戦死し、正室だった娘は自害。
いや……、お父さん……、さすがにコレはあんまりですってば……。
ちなみに裏切った伊賀久隆は直家の妹婿(ようするに義兄弟)なんですが、後に直家に毒を盛られて死んじゃいます。
もう暗殺が稼業と言わんばかりで、誰も止められないぜ、オーマイガッ!
チカラを付けたら? そりゃ謀反ですよ
こうなったらやることは1つ、下克上です。
1569年、直家は、織田信長や播磨国の赤松政秀と手を結び主君、浦上宗景に反旗を翻しました。
しかし、これは色々あって失敗し直家は宗景に降伏。私だったらこんな危険人物を生かしておかないですが、宗景は特別に助命してしまいます。
あ〜あ、こりゃもうフラグですよね?
そう思ったら案の定、直家は5年後に再度謀反を起こします。今度のパートナーは毛利で、直家は宗景を追い出すことに成功しました。
こうして備前を手に入れた直家は毛利家の配下で戦うのかと思いきや、1579年に毛利と手を切り織田信長の家臣となります。
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そして毛利とドンパチを繰り返しました。
まさに戦国、昨日の友は今日の敵ですね。
しかし、毛利との戦いのさなか、ある病気が直家を襲います。
その病気とは『尻はす』です……って、もちろんフザけてませんし誤字でもありません。
きちんと『尻はす』と記録が残っているのですが、そんな病名、聞いたことないですよね。
となれば文献から推察するしかないでしょう。
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