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【謀殺王の『尻はす死』】
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『尻はす』って一体なんなのさ!?
直家の死について書かれた文献には以下のようにありました。
『或説に、直家の腫物は、尻はすといふものにて、膿血出づることおびただし。是をひたし取り、衣類を城下の川へ流し捨つるを、川下の額が瀬にて、乞食共度々拾ひけるに、二月中旬より、此穢れたる衣類流れざるより、直家はや死去ありしといふ事を、外にて推量して、皆之を沙汰しけるとぞ。』(備前軍記より)
【尻はす】と呼ばれる腫物は、膿の混じった血が沢山出ることは分かりました。
が、それ以上は不明です。
近年書かれた読みモノでは「尻」というキーワードと出血から『大腸癌』では無いか?という説が多く見られます。
しかしながら『腫物』という表現は主に『皮膚に出来た病変』を指す場合に使われます。
大腸癌も腫瘤を形成するタイプがありますが体表から見ると目立ちません。
また、「膿と出血を拭き取った衣類を川に流して捨てた」との表現からも『身体の表面にできた腫瘤から膿や血が大量に出た』と解釈することもできます。
この場合は『皮膚癌』の一種ではないかと推測。
小説『宇喜多の捨て嫁(→amazon)』では、刀傷に出来た腫瘍が穢れた血膿を吹き出し、その様子が汚物を排泄する尻に似ていることから「尻はす」と呼ばれると表現しており、この解釈、ナイスですね!
こうした経過から『癌』であった可能性は高いです。
もう、
『何の癌なの?』
という点については、そっとしておいて下さい、判断つきかねます。
かくして謀略の限りを尽くした直家も病には勝てず、天正9年(1581年)の末頃に岡山城で病死しました。
享年53。
『兄と会う時は鎖帷子 by宇喜多忠家』
身内にも容赦の無く実の弟にもビビられていて、
『兄と会う時は鎖帷子by宇喜多忠家』
なんてエピソードも残っている宇喜多直家。
ただ、家臣を粛清したことはなく、どちらかと言うと慕われるお殿さまだったようです。
意外ですよね。むしろ身内に厳しい、という。
病が重く気弱になった際、こんなエピソードが残されてます。
「俺が死んだら殉死してくれるかな?」と配下の連中に尋ねたところ、忠臣であるはずの戸川秀安に「坊さんなら天国に導いてくれるでしょうが、俺ら武士は殉死しても修羅道にしか導けませんからムリゲーです。殉死は坊さんに頼んで下さい」と諌められます。
そして、これで終わらず直家が、
「理が通ってるよね、ゴメン、殉死しなくて良いよ(´・_・`)」
と素直な返事を告げるというエピソードも残っています。茶目っ気たっぷりで惚れてしまいそうになりますよね。
宇喜多直家は、確かに敵を倒すのには、多少どころかトンデモなく汚い手を使っています。
しかし、領地を広げ、家臣を養うためだったと考えると『実は良い人だったのでは?』なんて思えてきませんか。
まぁ、親戚にいたら絶対イヤですけどね。
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文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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◆拙著『戦後国診察室2』を皆様、何卒よろしくお願いします!
【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon)
『宇喜多の捨て嫁』(→amazon)
◆吉備叢書. 第6巻 備前軍記(土肥経平)(→link)
◆『武将感状記』博文館編輯局 編(→link)
◆武人百話 : 精神修養 金子空軒, 北村台水 編 帝国軍事協会出版部(→link)
松永久秀/wikipedia
宇喜多直家/wikipedia
伊賀久隆/wikipedia
宇喜多忠家/wikipedia