明和七年(1770年)9月4日は、第六代小倉藩主となる小笠原忠固(ただかた)が誕生した日です。
江戸時代の大名は多かれ少なかれ、何らかのピンチに見舞われていますが、この人の場合、割とのっけからトラブル続きの人生を歩んでおりました。
ただし、悪いのはだいたい自分。
一体どういうことなのか、さっそく見て参りましょう。
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殿「老中になりたいなー」家老「えっ!?」
小笠原忠固の父は、播磨安志藩主の小笠原長為です。
当人は生まれ順では長男ながら、生母が側室だったため次男扱いとなります。
しかし、そのおかげで(?)本家の小倉藩主・小笠原忠苗(ただみつ)の養子に入ることになり、34歳で家督を相続することになりました。
跡を継いで三年目には、朝鮮通信使の接待という大役も務めております。
これが忠固に、変な情熱を持たせてしまうキッカケとなりました。
朝鮮通信使の接待によって、彼は外国との折衝や交流に強く興味を持ったのでしょう。
「老中になって、幕政に参加したいなー」(超訳)なんてことを言い出してしまったのです。
しかも、妄想だけにとどまらず、家老・小笠原出雲などに相談するという本気のマジモードで困ったもの。
当然、周囲には大反対されました。
接待で金を使っていた上に、それ以前からの洪水による被災や、先代藩主の失政による強訴などがあり、小倉藩はとても穏やかとは言い難い財政状態だったのです。
老中の立場をもぎ取るには、他の老中や幕閣に膨大な賄賂を送らねばなりません。
そんな余裕はどこにもありませんでした。
賄賂で財政は傾き 暗殺計画で出雲の家臣が
家老の出雲は、こういった状況を切々と説きました。
しかし小笠原忠固はしつこく「老中になりたい!」とゴネ続けます。
仕方なく出雲は、ツテを作ろうと賄賂を送り始め、当然、それに従って藩財政は傾いていきました。
忠固は、望みの叶う見込みが立っているように思えてご機嫌だったかもしれませんが、出雲や他の家臣たちは「なんで殿様のワガママのために、こっちの仕事をやりにくくしなけりゃならんのじゃ!」と思っていたことでしょう。
これに対し、積極的に反対しようという家臣も現れ始めます。
過激な一団が、出雲の暗殺を企んだこともありました。
出雲は一命をとりとめたものの、出雲の家臣が命を落としてしまったそうで、可哀想すぎる(´・ω・`)
また別の反対派は、約90人でまとまって“隣の福岡藩に逃げ込む”というダイナミックストライキをやってのけます。
逃げ込んだ先が福岡の黒崎というところだったため、こちらの反対派は「黒党」と呼ばれるようになりました。
対し、出雲たちは城に残っていることから「城」が「白」に転じて「白党」とされ、こうしてこの騒動は【白黒騒動】と呼ばれるようになりました。
ったく、誰がうまいこと言えと……。
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