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【小笠原忠固と白黒騒動】
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結局幕府にバレ 家臣が罰せられ
逃げ込まれたほうの福岡藩は、さぞ驚いたでしょうね。
しかし、この頃の福岡藩主は黒田斉清(なりきよ)という人で、蘭学に傾倒していたためか、この騒ぎへの反応は伝わっていないようです。長崎の警固で忙しかったからかもしれません。
他藩に迷惑をかけた上、こんな恥ずかしい成り行きが幕閣にバレたら、改易されかねない一大事。
そのため、小倉藩はなんとか事を収めようとしましたが、結局、幕府にバレて以下のような処分が下りました。
・出雲は家老罷免
・反対派のうち、利己心の強かった者は処刑
・小笠原忠固は100日間の禁固
そもそもの火種である忠固の処分が軽かったのは「幕政に参与したい=幕府に対する忠誠心が高いってことだからおk」という判断だったとか。
江戸時代の前半だったらもっと厳しい処分だったはずですが、この頃の幕府は財政難&外国船への対処でにっちもさっちもいかない状況になりつつあった……というのも理由だったでしょうね。
改易するにしても、その後、誰を新しい小倉藩主に据えるか?という点でまたゴタゴタします。
小倉藩の人々からすれば「あれ? 殿様と家臣の処分が逆じゃね?」とツッコミたかったはず。
頑張って藩財政を更に傾ける忠固 ダメだこりゃ
命を拾われた小笠原忠固は、その後も藩財政を再建しようとして年貢を増やすなどの失策を重ねました。
あるところでは、百姓の困窮を見て哀れんだ奉行が独断で年貢を減らし、その責任を取って切腹するという痛ましい事件まで起きたといいます。
そして忠固の亡くなる天保十四年(1843年)まで、小倉藩の財政が改善することはありません。
忠固の息子やその養子(忠固にとって義理の孫)たちの働きにより、小倉藩はなんとか幕末までに財政を再建させることができたのです。
しかし、心労・過労は相当重いものがあったでしょう。
忠固以降の藩主は皆30~40代で亡くなっております。
ちなみに、その頃も家臣団の一部は白黒騒動の余波で揉めていたとか。何やってんだか……。
忠固が老中にこだわりさえしなければ、家臣も子孫ももう少し楽だったでしょうにね。
江戸時代後半には「老中になれる血筋だけど絶対なりたくない!」と言い張り、あの手この手で老中就任を回避しようとした家もあるくらいです。
なのになぜ忠固は幕政参加に固執したのか。
当人から詳しく知りたいところです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
中江克己『江戸三〇〇年 あの大名たちの顚末』(→amazon)
小笠原忠固/wikipedia