大河ドラマ『べらぼう』で田沼意次を支える側近といえば?
嫡男の田沼意知と共に、いつも側にいるのが原田泰造さん演じる三浦庄司(みうら しょうじ)ですね。
劇中の三浦は、主人である意次と親しげに冗談なども言い合うような間柄であり、さほど切れ者という雰囲気は感じられないかもしれません。
しかし実際は、農家の出から意次に抜擢された優秀な人物であり、ドラマの中でも要所要所で意次に具申したり、仕事を頼まれて働いております。
果たして三浦庄司とは一体何者なのか?
史実からその事績や生涯を振り返ってみましょう。
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田沼意次の用人して大抜擢される
三浦庄司の上司である田沼意次は享保4年(1719年)、江戸で生まれました。
父の田沼意行が紀州藩士であり、八代将軍・徳川吉宗について江戸に入り、旗本となっていたのです。

徳川吉宗/wikipediaより引用
一方、遅れること5年、三浦庄司は享保9年(1724年)に備後国福山藩の農家に生まれました。
最初から意次の近くにいたわけではないんですね。
農家出身の三浦庄司は、その後、遠江国相良藩士となり、さらには田村家に仕える三浦五左衛門の養子として用人に抜擢されました。
農民の出でありながら、田沼意次の側近にまで出世したことが、最大の特長といえるでしょう。
実力で上役に引っ張られる、三浦庄司はまさしく「時代の子」と言える存在でした。
田沼家中の特異性
大河ドラマ『べらぼう』で、こんなシーンがありました。
日光社参が決まった折、田沼意次と犬猿の仲である松平武元が嫌味を言うのです。
田沼家中の者は馬に乗れるのか?
武具の用意はできるのか?
意次自身には乗馬シーンがありますし、演じているのが渡辺謙さんであることから、放映時はとてつもない嫌味だと受け止められたものです。
しかし、この言葉には、もうひとつの含意もあります。
三浦以下、田沼家中には武士の出ではない者が多い。
そんな馬にも乗れぬ連中ばかりで、果たして恥をかかずにすむのか――武元はそう挑発してると言えるのです。
この状態は、田沼意次の慧眼や斬新性を表すようでいて、実際は、強い身分制社会の中で疑念を持たれても致し方ない要素になりました。

田沼意次/wikipediaより引用
だからでしょう。田沼意次のゴシップが喧伝されるようになると、「腹黒い腹心」として三浦の名が取り沙汰されるようになってゆくのです。
むろん田沼意次の側近は三浦庄司一人ではありません。
こういう時、複数人の役割を一人がまとめて負うことはドラマでは多々あります。
いわば三浦は、田沼意次側近の役割を劇中では一人でこなす、農民出身側近の代表といえるでしょう。
工藤平助の回想に出てくる用人とは?
そんな田沼意次の要人として、三浦庄司が大きな役割を果たす場面はどこにあるのか?
仙台藩医の工藤平助が、あるとき田沼家用人とこんなやりとりをしたという記録があります。
「我が主君は、何か偉業を成し遂げた老中として歴史に名を残したいと、日頃より仰せになっておられるのだ」
だ」
「なるほど。それでは蝦夷地から貢物を得られるようにするのはいかがでしょう? これほどの偉業はありますまい」
「おお、それだ!」
工藤平助の娘である只野真葛が随筆『むかしばなし』で書き記したもので、このやりとりの後、工藤は『赤蝦夷風説考』を書き記し、田沼意次に献上したとされます。

工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』/wikipediaより引用
そしてこれが田沼意次失脚により幻に終わった蝦夷地計画へと繋がってゆく。
この用人とは、史実では三浦庄司か井上寛司と推定されていますが、劇中では、若干変えられて出てきます。
三浦が「築地の梁山泊」と噂される工藤平助の開催した宴に参加し、そこで既に出来上がっている『赤蝦夷風説考』に目を通しました。
そこで工藤と会話をし、オロシャ(ロシア)が日本との交易を望んでいることや、蝦夷地開発の可能性を見出し、田沼に報告するという流れですね。
田沼意次と蝦夷地の結びつきは、ドラマでは若干前倒しにされてはおりますが、無理のない範囲でアレンジされていたものとなります。
しかし、こうした流れで進みますと、今後の三浦は「田沼が憎まれる要因を作ってしまう」という非常に辛い展開が待ち受けることになってしまう。
いったい彼ら主従に何が起きたのか?
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