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【片倉重長と阿梅】
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お父さん安心して突撃しました
愛娘が片倉家に無事保護された事を聞いて、幸村は完全に後顧の憂いがなくなりました。
明けて7日の【天王寺口の戦い】。
徳川本陣へ向けて決死の総攻撃を敢行、寡兵でもって松平忠直隊や本陣を守る旗本勢に突撃すること三度、とうとう敵本陣にまでたどり着きます。
三方ヶ原の戦い以降、一度も倒された事がなかったという徳川の馬印(大将の存在を示すための印)をも倒す獅子奮迅の活躍の後、ついに力尽きて壮絶な最期を遂げたのです。
運命に翻弄され、それに抗い続けた男の凄絶な人生は、敵である東軍の諸大名の間でも話題になります。
かくして徳川の世にあっても講談や軍記物として広く流布するのです。
5月7日深夜。
戦う父や兄の身の回りの世話に奔走し、徳川の大砲に怯え、侍女や家臣達と共に籠もった大阪城が燃え落ちる――戦闘に直接参加しなかったとは言え、心は共にあったはずの阿梅は、どんな気持ちでそれを見つめていたでしょう。
翌8日、豊臣秀頼、淀の方は自害。
阿梅の兄である真田大助幸昌もまた、彼らに従って殉死しました。
真田は、豊臣の譜代の家臣ではない。
まだ14の子供ではないか。
内応を疑われていたというのに、そこまで忠義立てする程の義理があるだろうか……。
等々、周囲の人は彼の自害を止めようとしましたが、彼は父の遺命であるとして、静かに西に向かって一礼すると、見事に切腹して果てたと、今に残る書物は伝えています。
他にも主だったところでは……。
・11日 大坂方の武将であった長宗我部盛親が捕らえられる。
二条城門外に縛り付けられ晒された後、15日に6人の子女と共に斬首。
・12日 秀頼の妾腹の娘が捕縛される。
秀頼の正室で家康の孫娘であった千姫の必死の嘆願により、落飾、助命を許される。
・14日 大坂町奉行であった水原石見守が潜伏先で藤堂高虎の家士と交戦.
三人を斬り伏せ、自身も斬り死に。
・23日 秀頼の遺児である8歳の国松が捕縛。
六条河原で処刑される。
次々に徳川方の捜査網にかかり、処刑されていきました。
名のある人は、捕らえられてから処刑までの記録がありますが、この他にも毎日50から100という数の豊臣に与した人々が捕らえられては処刑され、伏見から京都にかけての街道筋には、およそ2万もの首が晒されたと言います。
残党狩りを逃れて所領の白石に無事到着
かように豊臣の残党狩りが苛烈を極める中。
徳川への義理を果たし、片倉隊の労あって大功を立てた伊達軍は、徳川秀忠の帰陣に伴って9日朝に難波を発し、夕方には京都の伊達家所有の屋敷に入りました。
伊達の軍勢はこの後しばらく京都に滞在した後、主人に従って仙台領に帰還しています。
隊伍の中に阿梅姫を隠し、奥州までの数々の関所を潜り抜け、片倉重長は片倉家の所領である白石に戻ると、そこに阿梅の弟妹達も呼び寄せ、男子は片倉の姓を名乗らせて伊達家に仕官させ、女子は輿入れ先を探してやり、かいがいしく世話を焼き続けます。
重長は、幼い上に身分的にも上である(※幸村は真田氏の嫡男ではありませんが大名格の家柄であり、片倉氏は大名に仕える陪臣です)阿梅姫を側女とすることを憚ったのか。
彼の正室が阿梅を妹のように可愛がるに任せて放置しており、彼の正室が病を得て他界するに至って初めて阿梅を室に迎えています。
阿梅を可愛がりに可愛がった彼の正室が、死の間際
「私の死後はどうか阿梅殿を室に入れて下さい」
と遺言を遺す程だったと言いますから、よほど阿梅を信頼していたのでしょう。
この後、二人は34年の間を夫婦として仲睦まじく暮らします。
その間、片倉家にちょっとした内紛があったり、彼らの主である政宗とその庶子・秀宗の間に一悶着あったりと、世間は決して平穏無事とは行きませんでした。
しかし、二人は力を合わせて様々な難事に立ち向かい、片倉家を支えています。
万治2年(1659年)3月25日、片倉重長が76歳でこの世を去りました。
夫の菩提を弔っていた阿梅もまた、その二十数年後に眠るように息を引き取ります。
12の年に奥州に匿われてより、戦とは縁遠い生活を送ってきた阿梅。
生まれ育った西国や少女の頃に見た壮麗な大阪城、そしてそれが燃え落ちる光景は忘れがたいものだったのでしょう。
「少しでも西国に近いところに埋めて欲しい」という彼女の遺言で、彼女の墓は奥州街道の傍、白石から遠く西国を望むようにして作られています。
幸村の死から100年後に真田家復興の動きが
時は流れ、正徳2年(1712年)。
大坂夏の陣から100年近くの月日が経ったある日のこと。
伊達家中にあった片倉辰信という一人の武士が、片倉家から独立し、かつて彼の先祖のものであったという姓への復帰を認められています。
彼が名乗った姓は「真田」――。
そう、阿梅姫が我が身に替えても守ろうとした、幸村とその正室の血を継ぐ唯一の男子、当時4つであった真田大八の息子です。
仙台真田氏はその後も仙台藩に仕えて数々の業績を残し、その血統は明治維新で仙台藩の砲術指南役として活躍。
平成の世の今も続いています。
寡兵で徳川の大軍に立ち向かい、壮絶な突貫攻撃の末に果てた幸村。
敵兵や無頼の輩がうろつく戦場を決死の覚悟で渡りきり、片倉の陣地に駆け込んだ幼い阿梅姫。
彼らが望みを託した白石の地には、今も真田の名を残す史跡が数多くあり、彼らが生きた激動の時代の気風を現代に伝えています。
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鈴木晶・記
富永商太・絵
【参考】
小西幸雄『仙台真田代々記』(→amazon)
紫桃正隆『仙台領戦国こぼれ話』(→amazon)
戦国歴史研究会『戦国闘将伝十文字槍の天才軍師真田幸村』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)