織田信長を最も苦しめた敵は誰か?
武田信玄や毛利一族、あるいは畿内の三好一派など、名だたる戦国大名が頭に浮かびがちだと思います。
しかし、戦闘の規模や期間で考えてみると、最も手強かったのは本願寺(一向一揆)だという見方もありましょう。
1570年に信長と直接対峙してから以降約10年。
常に戦い続けてきたその中心は石山本願寺(後の大坂)ですが、なぜ、そこまで精強な織田軍を相手に戦えたのか?
というと戦国ファンにはお馴染みのアノ戦闘集団が浮かび上がってきます。
雑賀衆――。
鉄砲を担いだ傭兵として各地で戦い、織田信長の太ももを撃ったとされるプロのスナイパーたち。
その頭領が鈴木重秀(雑賀孫一)でした。
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雑賀衆五組のうち三組が帰順を申し出る
天正五年(1577年)1月2日、信長は前年末の鷹狩から安土に帰還。
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14日には早々と上洛し、妙覚寺に滞在しました。
『信長公記』には、浦上宗景・別所長治・武田元明などが挨拶しに来たと書かれていますので、おそらく新年のあいさつを始めとした社交も多かったことでしょう。
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信長は、25日には京都から安土へ帰っていますので、1月中は比較的穏やかな日々だったと思われます。
しかし、2月に入ってからは、慌ただしく次の戦に向けて動き出しました。
1日に紀伊・雑賀衆の五組のうち、三組と根来寺の杉之坊が「織田方につく」と誓ったので、この機会に雑賀衆の中で敵対している者を討つことにしたのです。
ついに雑賀衆との全面対決です(第一次紀州征伐とも言われます)。
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早くから鉄砲も入手していた傭兵集団
雑賀衆というのは、現在の和歌山県和歌山市~海南市にかけ、半独立国家ともいえる体制を築いていた集団です。
【雑賀衆の拠点】
※主な拠点である中野城(上)と雑賀城(下)
農業や漁業といった一次産業はもちろん、国内諸方との交易も行って経済力を蓄えていました。あまり農作物に向いた土地ではなかったようで紀伊半島~四国~九州の繋がる海運が盛んだったと目されています。
こうした海の繋がりがあっただけに、種子島に鉄砲が伝来すると、雑賀衆もかなり早い段階から火縄銃を入手していた――そう指摘する研究者もいるほどです。
鉄砲は自衛のためだけでなく、傭兵として働く者にも使われました。
その中に、浄土真宗の信徒であることから本願寺に味方した者たちも……それが鈴木重秀に率いられた一団です。
現代では「雑賀孫一(孫市)」という呼び名のほうが有名ですね。
この孫一は謎だらけの人物ですが、『信長公記』には鈴木重秀の名前で掲載されており、彼らは前年の戦い(136話)でも織田軍に大きな被害を出しており、信長としては見逃せないところでした。
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重秀(孫一)、是が非でも討つべし――。
かくして織田軍が行動を開始するのです。
雑賀の本拠地へ直接攻めこもう
石山本願寺に籠もった雑賀衆は非常に厄介です。
数多の一向一揆の民衆が戦うだけでなく、城から雑賀衆の得意な鉄砲で攻撃されたら、たとえ雨の日でも織田軍は被害甚大になる。実際、幾度も痛い目にあってきました。
ならば直接彼らの本拠地を攻めてしまえばよかろう――。
といったわけで、信長は雑賀攻めを決め、「13日に出陣する」と諸国にお触れを出しました。
雑賀衆と言っても全員が一枚岩ではなく、真言宗の信者もいたため、必ずしも全員が石山本願寺に味方したわけではないんですね。
そこで2月9日に信長は一旦上洛し、諸々の準備をして雑賀へ向かって出発したのが13日。
もともと上洛は8日を予定しておりましたが、雨のため一日延ばしたのだそうです。それでも13日の出陣は、当初の予定通りというあたり、織田軍の手際の良さがうかがえますね。
一方、信長の嫡子・織田信忠は、2月9日に美濃・尾張の兵を率いて雑賀へ向かっています。
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信忠はこの日、柏原に布陣し、翌10日は蜂屋頼隆の居城・肥田の城に宿泊。
11日には守山(守山市)まで進んでおり、以下のような他の織田一族とも合流していました。
・織田信忠(信長の長男)
・織田信勝(信長の次男)
・織田信孝(信長の三男)
・織田信包(信長の弟)
信包は信長の弟の中でも年長者で、一族の序列では常に信忠・信雄の次で信孝の上に位置しており、重視されていました。
このことから、信長とは同母兄弟だったのではないか?とも言われてます。
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