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戦国諸家 信長公記

雑賀孫一(鈴木重秀)を討て!信長と雑賀衆の全面対決~信長公記143・145話

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雑賀孫一(鈴木重秀)
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両者睨み合いの中 先に折れたのは雑賀孫一だった

しかし『信長公記』の記述では、ここでいったん話が中断。

京都で「当時は正親町天皇が住む内裏の築地塀(ついじべい)を修理する」という、なんだかのどかな話になっています。

それは次回の信長公記144話で記述するとして、今回は145話目にあたる雑賀衆との戦い結末へと進めていきましょう。

京都の人々が春を楽しんでいる頃、信長と織田軍の雑賀対陣は続いていました。

2月13日に信長が京都から出陣してから3月に入り、数週間。

正確な期日は不明ですが、両者睨み合っていた最中、最終的には、敵の大将にあたる鈴木重秀(雑賀孫一)を含む7名の代表者が折れます。

「今後は石山本願寺へ協力しません。信長公の命令に従います」

そんな誓紙を提出したので織田信長がこれを受け入れ、陣を解くのです。

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しかし、雑賀衆はこの後も信長と敵対していますので、この誓紙はあくまで一時的で表面上のもの。

信長も信長で、雑賀衆に対して「本願寺には手荒なことをしない」と言ったにもかかわらず、ほぼ真逆のことをしていますから、お互い様というところです。

ともかく休戦協定が結ばれた後の3月21日、信長は香庄(岸和田市)まで引き、ここで今後の備えとしていくつかの指示を出しました。

 


秀吉や長秀らの重臣を雑賀に残し

まず、佐野(泉佐野市)へ砦を造らせ、杉之坊と織田信張に城番を命じます。

織田信張は、同じ織田氏でも信長とは別の系統である”藤左衛門家”の人です。

信長の家は”弾正忠家”。

弾正忠家と藤左衛門家は、ともに清洲守護代家に仕えていましたが、いつしか藤左衛門家は弾正忠家に従うようになりました。

実は、信長の父・織田信秀の母である含笑院(がんしょういん)が藤左衛門家の出身です。

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簡単にいえば「同じ名字のちょっと遠い親戚」という感じでしょう。

それから、

・佐久間信盛
・丹羽長秀
・羽柴秀吉
・荒木村重

といった主力メンバーに対しても、しばらく駐留することを命じています。

兵数としてどのくらいだったかは記載がありませんが、彼らだけでも大名一人くらいは相手にできそうなメンツです。

雑賀方に対して「怪しい動きをすれば容赦しないぞ」という、無言の圧をかけたのかもしれませんね。

 


帰りにちょこっと名物を♪

こうしておいて、3月23日に信長は若江(東大阪市)まで戻りました。

ここで名物をいくつか買い上げています。

一、天王寺屋了雲より「貨狄(かてき)」の花入れ

一、今井宗久より開山(村田珠光)の蓋置き

一、2つ銘の茶杓

今回も対価として金銀を支払っています。

名物の価値を高め、領地に匹敵する褒美として扱った信長からすれば、そういう物を市井の人々の財産にしておくのは惜しいことだったでしょう。

領地不足を解決するためならば、多少の出費は惜しまなかったと思われます。

その後は24日に八幡(八幡市)に泊まり、25日に帰京して妙覚寺泊。27日には安土へ帰還しました。

信長にしてはややゆっくりした道程にも感じられますが、これは雑賀方の動きを警戒してのことでしょうか。

安土へ帰る前に雑賀方の動きがあれば、すぐ引き返していたと思われます。

少々スッキリしない形ではあったものの、これでこの時点における雑賀衆への対応は一段落しました。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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