天正10年(1582年)6月。
【本能寺の変】で、織田信長とその跡継ぎ・織田信忠の命を奪った明智光秀。
そのころ織田家の方面軍は、北の柴田、東の滝川、南の丹羽がいずれも動けず、光秀が畿内を制圧!というところで、西から羽柴秀吉が【中国大返し】を敢行させる。
そして、山崎の戦いで明智軍を撃破。
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山崎の戦い(明智軍vs羽柴軍)で秀吉が勝てた理由!敗者の光秀は何処へ?
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戦いはいったん終息したが、織田家の混乱はまだまだ収まらず、次なる戦いが始まった。
波乱含みの「清州会議」スタート!
会議
◆信長の仇討ちを秀吉に先越されてしまった柴田勝家さん。
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当初は信長と敵対していた柴田勝家~秀吉に敗れるまでの生涯62年
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織田家の筆頭家臣として、信長を愛する武将として、その苦しさたるや言葉では表しきれないほどだったでしょう。
それだけに【清州会議】に賭ける思いは、並々ならぬものがあったハズ……。
秀吉の対策
◆清州会議を迎えるにあたり、豊臣秀吉最大の難関が後継者でした。
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たしかに山崎の戦いでは光秀を討った。しかし、それまでの織田家中のランクからして、いきなり柴田勝家を上回る存在になれるワケではない。
しかも、勝家は織田家三男・織田信孝の烏帽子親でもあり、実質の後見人だったため、圧倒的不利は動かしようがありません。次男・織田信雄は最初から……。
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信長の三男・織田信孝が迎えた壮絶な最期~秀吉に敗れて十字腹とは?
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そこでプッシュしたのが織田信忠の嫡子・三法師(後に織田秀信)だったというわけですね。すると……。
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