天正六年(1578年)の9月30日、信長が堺の港で鉄甲船のお披露目をしました。
「鉄の甲(かぶと・よろい)」の字が意味する通り、鉄を装甲に使った船……ではないか?といわれています。
なぜスパッと言い切れないか?
というと、この船に関する記録があまりにも心もとないのです。
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各地の強敵たちが信長を包囲する
まずは作られた経緯から見てみましょう。
当時、織田信長は室町幕府最後の将軍・足利義昭と大ゲンカの真っ最中でした。
※以下は足利義昭の関連記事となります
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義昭は1573年【槇島城の戦い】で信長と激突。
敗れて京都を追い出されてから毛利家に身を寄せておりましたが、まだ諦めたワケではなく、四方へ書状を出して信長包囲網を構築していました。
このとき残っていた包囲網の諸勢力は
【北陸方面】
上杉謙信
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【関東甲信越】
武田勝頼
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【中国】
毛利輝元
【四国】
長宗我部元親
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【大坂】
石山本願寺
と言ったメンツです。
すでに武田信玄は亡くなっており、信長の本拠地近くでプレッシャーを与えていた浅井長政や朝倉義景も他ならぬ信長に滅ぼされております。
それでもかなり豪華なメンツが残っておりますね。
見方を変えれば、織田家が、これだけの強敵を相手に対抗できる力を有していたとも言えます。
立ち向かう信長オールスターズ
この強烈な包囲網に対し、織田家は各武将が対抗して当たりました。
信長自らが出向せずとも、各方面で戦える人間がたくさんいたのです。
この頃の信長軍団の顔ぶれを見てみましょう。
【北陸方面】
上杉謙信
vs
柴田勝家
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【関東甲信越】
武田勝頼
vs
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毛利輝元
vs
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【四国】
長宗我部元親
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【大坂】
石山本願寺
vs
佐久間信盛
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いずれも織田家躍進のもとになった勇将たち。この強力メンバーの中で、一人心もとない人物がいました。
この人は【退き佐久間】と言われるくらい殿(しんがり・軍が退却するときに一番後ろになる部隊)が上手だとされていました。要は、自分から攻める戦が得意とは言われていない。
しかもこのとき佐久間が対峙していた石山本願寺は鉄砲集団・雑賀衆を擁しており、さらには毛利も味方につけ、非常に強力な存在でした。
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