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【北条氏直】
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突如、名胡桃城を攻撃してしまい
北条方は、服属の意思を表明。
礼として北条氏規を上洛させました。
秀吉もこの時点では北条氏の意向を受け入れようとしていたようで、北条領域周辺の境界線策定に着手し、領域を確定させようとしておりました。
こうなると北条方としても「いかに良い条件を引き出すか?」という現実路線に重きが置かれ、政治工作に腐心していた様子も確認できます。
が、その一方で内部に大きな問題を抱えておりました。
先代の北条氏政です。
氏直の父であり「御隠居様」として大きな権力を有していた氏政は、秀吉への服従に強く反発しており、北条家中も一枚岩になり切れてはおりませんでした。
それでもかねてより懸念事項であった沼田領を3分の2ほど手に入れるという交渉がまとまり、この難局を乗り切れるかに思えました。
しかし、ここで氏直にとって手痛い事件が発生してしまいます。
なんと、沼田城主であった猪俣邦憲が、真田領の名胡桃城を攻略するという【名胡桃城事件】を引き起こしたのです。
名胡桃城とは、沼田城の西にある支城の一つで、北条に割譲されなかった3分の1の地域にありました。
百聞は一見にしかずですので、地図で確認しておきましょう。
黄色が北条方の城で、上から小川城、明徳寺城、沼田城
赤色が真田方の名胡桃城です
まるで楔を打ち込むように敵対勢力の城があるのですから、北条としても神経質になるのは無理はないでしょう。
むろん、そうした言い分は真田昌幸にとっても同様で、そもそも同エリアを実力行使で治めていたのは真田方でした。
沼田エリアは
・越後(北)
・信濃(西)
・関東(南)
を繋ぐ要衝だったので、北条も真田も、最重要視する拠点だったのです。
だからといっていったん収めた矛をふたたび振りかざした北条の対応を、秀吉が黙って見過ごすはずはありません。
「重大な違反」として北条方へ迫り、
・北条氏政の年内上洛
・事件首謀者の成敗
という2つの条件を提示しました。
これが果たされなければ、来春にも小田原を攻めるという「最後通牒」です。
むろん秀吉は本気でした。
諸大名に小田原攻めの準備を命じており、北条の対応次第ではすぐにでもGOサインを出す状況。北条家にとっては、まさに御家の存亡がかかった一大事です。
ところが、です。
こんな非常時に氏直は、上洛命令の引き延ばし工作に取り掛かってしまうのです。
もしも父の氏政を上洛させれば抑留される危険性があり、御家存続の危機を乗り越えても、「国替え」つまり領地の移動を命じられるのを恐れて動けずにいたのでした。
そして時間切れ――。
激怒した秀吉に一切の言い訳は通じず、天正18年(1590年)、ついに小田原の地で全面戦争の火ぶたが切って落とされるのです。
当時の武田や上杉の兵数は3万とか4万のレベルであったでしょう。
秀吉の動員力は20万規模でした。
小田原は孤立無援となった
いよいよ開戦が目前に迫った北条領では?
家臣や他国衆を小田原城に入れ、同時に支城の守りも盤石にしていきました。
北条氏は「難攻不落」と称された小田原城を中心にとにかく守りを固め、持久戦の中に勝機を見出そうとした節がうかがえます。
見事に守り抜き、厭戦気分が漂えばしめたもの。
その後の交渉で有利な条件も引き出せる可能性はあります。
しかし、です。
孤立無援と化した北条軍に対し、助け舟を出すものはありません。
通常、城の籠城は、他勢力の後詰めがあってこそ効果を発揮するものです。
敵を取り囲んでいる間に、たとえば、今回の場合ですと、東北から伊達政宗が反豊臣として進軍してきたり、はたまた隣国・駿河の徳川家康が裏切れば、そのインパクトも相当大きなものとなったでしょう。
いくらでも妄想(北条にとってはわずかな希望)は広がります。
そしてその妄想は、妄想のままで終わりました。
羽柴秀吉を中心として徳川家康・前田利家・上杉景勝といった「戦国オールスター」たちの優位は火を見るよりも明らか。
小田原包囲網はわずか3か月程度で完成してしまい、北条軍は城内でひたすらジリ貧の籠城戦を強いられるようになるのです。
瞬く間に戦況が悪化していく様子を目の当たりにして、穏健派の氏直はひそかに秀吉との和睦を模索し始めました。
徳川家康や織田信雄によって開城を勧められた氏直は、ことを重く受け止めたことでしょう。
城内ではすでに「こんな戦、やってられるか!」と逃亡者が続出しており、重臣である松田憲秀の息子が敵方と内通するなど、戦の継続が困難なレベルに達してかけていたのです。
この小田原征伐で、本格的な戦闘がわずかしか行われなかったのも、北条方の方針がガタガタだったことも影響しているのでしょう。
秀吉方にしてみれば、無理に攻め込んで将兵の損耗をする必要はなかったのです。
結果的に、氏直は「自身の切腹による城兵の助命」を条件に、城を明け渡して降伏しました。
秀吉は「神妙な申し出だが、全員の助命はできない」として
・北条氏政
・北条氏照
・大道寺政繁
・松田憲秀
ら四名の処刑を実施しております。
一方で北条氏直は許され、降伏時の行動も称賛されました。
明け渡された城や領国には家康が入り、助命された氏直は高野山への追放が決まります。
ついに五代続いた戦国大名北条氏は滅びました。
初代の伊勢宗瑞(北条早雲)から始まり、まさに戦国の世を体現した勢力の滅亡は、一時代の終わりを象徴しているかのようです。
実は幕末まで残っていた
高野山に追放された氏直には、側近家臣ら30名が同行することになりました。
妻の督姫は小田原に入った家康のもとへとどめ置かれることとなり、山へは連れ添っていません。
天正19年(1591年)には家臣らや家康のとりなしもあって赦免運動が行われ、秀吉は氏直を許して1万石の所領を与えることを決定します。
彼は秀吉の命令で大坂へと移り住み、羽柴氏の家臣として再出発を図りました。
しかし、新たな門出の矢先、同年中に疱瘡を患ってしまった氏直は体調を崩してしまいます。
結局この病気は快復することなく、彼は30歳でその生涯を終えてしまうのです。
このタイミングでの病死は「お前だけのうのうと生き延びるのは許さん!」という北条遺臣らの怨念に感じられてならないのですが、さすがにオカルトですね。
なお、氏直には男子の後継ぎがいなかったため、秀吉に許された分の知行をだれが引き継ぐかが問題になりました。
最終的にはいとこの北条氏盛がこれを相続。
関ヶ原の戦いで活躍したこともあって狭山藩1万1千石を安堵されています。
結局この藩主は代々氏盛の子孫らが就任し、幕末まで北条の名前を残す結果となりました。
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文:とーじん
【参考文献】
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学研パブリッシング)』(→amazon)
黒田基樹『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon)
黒田基樹『戦国北条五代(星海社)』(→amazon)
『国史大辞典』