北条氏直

北条氏直/wikipediaより引用

北条家

秀吉に滅ぼされた北条氏直は愚将か否か~早雲以来の関東覇者一族は小田原に散る

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秀吉と家康の代理戦争と化した

徳川との和睦が成立した天正11年(1583年)。

北条氏は、上野(群馬)と下野(栃木)地方の攻略に乗り出しました。

しかし、国衆の離反や根強い抵抗に妨害され、思うように侵攻作戦を展開することができません。

翌年には彼らを攻略するべく藤岡・沼尻にて対陣し、その後ろ盾になっていた佐竹氏を崩すためにも調略を進めました。

そうこうしているうちに越後の上杉景勝が、佐竹氏救援のため上野まで進軍してきます。

上杉景勝/wikipediaより引用

さすがに佐竹と上杉の両軍に挟まれては危ういと判断したか。

北条方は、北条氏照を介して佐竹氏と和解するなど、関東での争いもジリジリとしていた頃、中央では豊臣秀吉徳川家康が本格的な合戦へと突入していきます。

いわゆる【小牧・長久手の戦い】と呼ばれる争いです。

明智光秀を倒して信長敗死の仇討ちを取り、清州会議を経てから、賤ヶ岳の戦い柴田勝家を斃した秀吉。

織田政権内でのトップに躍り出た秀吉は、その地位を盤石なものとするため、信長の二男・織田信雄と、さらに実力では圧倒的だった徳川家とも対峙することになったのです。

そこで北条氏はどう関わったか?

家康と同盟関係にあった北条は、徳川へ援軍を送ったりはしておりません。

というのも秀吉が佐竹氏を支援しており、関東の戦いはさながら秀吉と家康の代理戦争と化していたのです。

佐竹(秀吉)
vs
北条(徳川)

この時期の北条は、一般的にあまり目立った動きはしてないかもしれませんが、もちろん黙ってジーッとしてはおりません。

 


激化する沼田エリアの争奪戦

北条氏は同年中に再び上野へと侵攻。

敵対していた由良氏や長尾氏を打倒して降伏に追い込むと、この地で彼らに抵抗する勢力は真田氏を残すのみとなりました。

天正壬午の乱で激しく争奪戦を繰り広げた【沼田エリア】の争奪戦ですね。

さらにこの時期には、反佐竹勢力である奥州の伊達政宗とも軍事的連携を図るなど、外交的にも戦況は以前より優位に運びつつありました。

そして、いよいよ家康から真田氏攻撃の要請が下ると、「待ってました!」と言わんばかりに沼田城へと突撃。

しかし真田昌幸率いる真田家の根強い抵抗によって城を落としきるまでには至りません。

真田昌幸/wikipediaより引用

一方、天正15年(1587年)には、下総佐倉の地を支配するなど、北条の関東制圧作戦は順調かに思えました。

関東覇者としての立場を固めていく北条氏直

北条早雲に始まり、小田原へ進出した北条氏綱、関東の大部分を手中に治めた北条氏康、そのエリアを盤石なものとした北条氏政

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五代にわたる北条の体制は揺るぎなく、それが秀吉という存在を見誤らせてしまったのかもしれません。

このころには秀吉は日本の大部分を制圧しており、ついには関白就任という快挙を成し遂げていたのです。

天下人としてこの上ない地位まで手に入れた秀吉。

いよいよ徳川もその軍門に降ってしまうのです。

これには、あくまで反秀吉勢力として抵抗を続けた北条にとって、あまりに大きな痛手でした。

なぜなら秀吉に従うカタチで家康から【惣無事令】が関東エリアに向けて出され、合戦を停止させられたのです。

「勝手に戦争すんなよ。そんなことしたら攻め滅ぼすからな」

応仁の乱(1467年)から数えて約120年。

関東では享徳の乱(1454年)から約130年。

戦乱の毎日を過ごしてきた関東武士にとっては青天の霹靂というほかありません。

秀吉に従って停戦するか。

あるいは敵対するか。

北条氏直は、究極の選択に迫られていくのです。

 


名胡桃城問題で交渉決裂

秀吉からの停戦令を受け取った氏直は、当初「明確に答えを出さない」というスタンスにしました。

具体的な軍事行動こそ起こさない。

しかし領国での軍備は推し進めていく。

どちらにも転べるような体制を構築していきます。

そのためにも、まず氏直は、小田原城をはじめとする領国内の城に対し、大規模な普請工事を実行しました。

工事を担当する人員が急ピッチかつ大量に動員したことが史料からも確認でき、氏直が慌てていた様子が垣間見えます。

まぁ、当たり前ですね。お家の存亡がかかった一大事であり、多少強引な手段を用いてでも防御力を増強する必要がありました。

日に日に強まっていく秀吉からの圧力。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

氏直は領内に「人改めの令」を発し、普段は兵士として動員されていない商人や職人までを徴兵対象としていたことが確認できます。

こうした数々の臨時措置は、たしかに一時的な防御力の増強にはつながっています。

一方で領民に過剰な負担を強いることにもなってしまいました。

果たして氏直は生き残りを賭けて決戦をしたいのか?

以上の行動をみていくと、まるで北条氏が初めから秀吉と戦う気マンマンであったかのような印象を受けがちですが、実際のところはそうではありません。

天正15年(1587年)ごろには、秀吉による「北条、倒しちゃおっかな~」というような風評が広がりながら、実際は取り止めとなっており、親戚である家康の斡旋で交渉が行われています。

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