永禄十二年(1569年)6月17日は、黄梅院(おうばいいん)が亡くなった日です。
この時代、信玄の娘という立場に生まれただけで波乱の悪寒であり、まさにそんな生涯を送った人でした。
彼女の一生を見ていきましょう。
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盛大に祝福された結婚だった
黄梅院は、武田信玄とその正室・三条夫人の間に生まれた娘(長女)です。
場合によっては、武田の有力家臣に嫁いで、家を守り立てる道もあったでしょう。
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しかし、当時の情勢から、信玄は長女を他国へ嫁がせることを決めます。
黄梅院は12歳で後北条氏の次代を担う北条氏政に嫁ぐことになり、武田・北条・今川の間で結ばれた甲相駿三国同盟の楔となったのです。
まさに政略結婚のテンプレな経緯で相模に輿入れした彼女でしたが、両家の喜びはなかなかのものでした。
輿入れに際して信玄は、お供の騎馬3,000をつけるなど合計1万人規模で娘を送り届けたと言います。
さぞかし華やかな行列だったことでしょう。
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義元が信長に討たれ、三国のバランスが崩れる
いざ嫁いだ黄梅院と夫・氏政との仲も良好でした。
公家の姫である三条の方から生まれたので、生来の気品や身につけた教養など、夫から大切にされるような美点もたくさんあったのでしょう。
後に後北条氏を継ぐ北条氏直をはじめ、子宝にも恵まれました。
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しかし、大国の事情が絡んだこの蜜月は、長くは続きませんでした。
前述の通り、武田・北条・今川の三家は甲相駿三国同盟を結んでいましたが、【桶狭間の戦い】で今川義元が斃れたことにより、三家の絶妙なパワーバランスが崩れていくのです。
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北条と武田は、上杉謙信という共通の敵がおりました。
しかし信玄は、強敵・謙信との戦いを避け、南進戦略に切り替えていくのです。
要は駿河の今川へ攻め込んだのですね。
それが永禄11年(1568年)のこと。
話は単純に【甲相駿三国同盟】の破綻にとどまりませんでした。
今川家で義元の跡を継いだのが今川氏真であり、その正室が後北条氏の姫・早河殿(はやかわどの)だったため話がこじれます。
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端的にまとめますと「信玄の攻撃により今川家臣に見放なされた氏真は北条のもとへ逃避。妻(北条の娘)は着の身着のまま、徒歩で逃げざるを得なかった」という感じです。
なぜ信玄ほどの者が敵を増やすような真似を……
自分の娘がそんな目に遭わされ、いい気分になるわけがない――。
当然ながら北条氏康は、武田家に対して激怒。
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信玄が自ら強敵を敵に回してしまったというのも腑に落ちないのですが、まぁ、それだけ海のある駿河が魅力的であり、謙信が強敵だったのでしょう。
ともかく手切れとなれば、北条にしたところで、これ以上、敵の娘を家にとどめておく理由はありません。
かくして黄梅院は永禄12年(1569年)、甲斐へ送り返されることになりました。
「堪忍分」という収入(領地・権益)をつけてくれたので、舅の北条氏康としても、黄梅院個人に対しては悪い印象を抱いていなかったのでしょう。
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