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【黄梅院】
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堪忍分とは、客として身を寄せていた人や、家臣が討ち死にした場合に、遺族に与えられるものです。
氏康はおそらく、前者の意味で黄梅院に堪忍分16貫文を与えたのでしょう。
まぁ、跡継ぎを産んでくれた上、息子とも仲良くやっていた人を別れさせなければならないのですからね。
良心があれば呵責を覚えるのは至極当然ですね。
もともとは信玄の攻撃があったわけですが。
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氏康から黄梅院へ渡された餞別は15年分のお米代
ちなみに、16貫文はどれぐらいの価値なのか?
戦国時代の貨幣価値は諸説ありますが、1貫=米1石という説があるので、わかりやすさ優先で試算してみましょう。
「米1石=成人が1年に食べる米の量」です。
となると、黄梅院は16人を1年、あるいは1人を16年養えるだけの金額をもらって離婚した(させられた)ことになります。
現代でも離婚の際に子供の養育費の話が出ますが、この場合は「子供を育てるのに必要な費用のうち、食費分だけもらった」という感覚になるでしょうか。
まぁ、黄梅院の場合は子供を連れて帰ることはできませんでしたが……。
少なくとも、「蔑まれて叩き出されたわけではない」ということになるでしょうか。
甲斐に戻った後は世の無常を嘆いたのか、甲府にある大泉寺というお寺で出家したといわれています。
彼女の憔悴ぶりは凄まじかったようで、離縁から約7ヶ月後に27歳という若さで亡くなっております。もしかしたら離縁の前あたりから病みついていたのかもしれません。
だとしたら、瑕瑾がない上に病身の嫁を送り返さねばならないことになるわけで、氏康が堪忍分を与える気になるのもうなずける話です。
菩提寺は甲斐市にある早雲寺黄梅院
父の信玄としても、娘のやつれた姿とその後の早すぎる死は相当堪えたようで、彼女を丁寧に弔いました。
黄梅院の菩提寺は、現・甲斐市に建てられ、今は当時の本尊であったとされる子安地蔵だけが近くの竜蔵院に安置されております。
京都にも同名のお寺があるので、間違えないとは思いますがご注意を。
また、妻を深く思っていたのでしょう。
後に武田と和解した氏政も、後北条氏の菩提寺である早雲寺内に黄梅院(現存せず)を建立。彼女を弔っていたと伝わっております。
大河ドラマ『真田丸』では高嶋政伸さんが演じられ、どことなく性格に偏りのある人物像として描かれましたが、実際は妻を愛する一人の武将としての一面が垣間見えるところですね。
まぁ、主役ではないので、そこまで描かれることもないのでしょうが……。
なお、完全に余談になりますけれども、毛利両川の一人・小早川隆景の戒名も「黄梅院」です。
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梅は熟すと黄色くなりますから、隆景はともかく、若くして無念のうちに亡くなったであろう黄梅院に名付けるのは少々酷な気もしますが……(´・ω・`)
もしも生まれ変わりがあるのなら、来世こそ幸せになっていてほしいものです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
黒田基樹『戦国北条家一族事典』(→amazon)
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
黄梅院について/甲斐市
黄梅院 (北条氏政正室)/wikipedia
早雲寺/wikipedia
黄梅院_(京都市)/wikipedia
小早川隆景/wikipedia