軍神・上杉謙信と信濃の覇をめぐって合戦を繰り返し、ついには織田・徳川との対決のため軍を西へと進めた、戦国の英雄・武田信玄。
「甲斐の虎」と呼ばれたその手腕のみならず、周囲を固める親類衆や家臣たちの名も現代に伝わっておりますが、この武田一族・軍団について語られるとき、どうしても腑に落ちないことがあります。
信玄の正室・三条夫人についての描写です。
公家の名門出ということを鼻にかけ、高慢ちきで嫉妬深い悪妻――。
こういった描かれ方は果たして本当なのか?
一般に、戦国時代の公家というと、マイナスイメージを伴って描写される傾向にあります。
格式や先例にばかりしがみつき、大名達に寄りかかることでしか生きていけない、旧勢力の象徴と申しましょうか。
公家の姫である信玄正妻・三条夫人の否定的な描かれ方も、こういった傾向が間接的に影響していると思われます。しかし……。
当時の公家は、決して一方的に戦国大名に依存するばかりの存在ではありませんでした。
本稿では、元亀元年(1570年)7月28日に亡くなった、三条夫人に注目してみたいと思います。
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戦国期の大名と公家は持ちつ持たれつ
戦国時代、京都からの情報は、大名が政治・軍事行動を起こす際の情報源として重宝されておりました。
また、それぞれに家業を持つ“公家”は、和歌や礼法、学問の知識を請われて、武将たちに伝授し、それと引き換えに授業料として報酬を得ておりました。
いわば、両者の関係は「共生」と言った方が近いですね。
特に、信玄などのように公家の姫を娶れば、他より一歩抜きんでた格式と権威だけでなく京都とのパイプを手にできます。
それでもなお、各フィクションでは紋切り型の否定的・揶揄的なイメージで描写されることがほとんどで、公家の中で特例的存在といえば以下に記す者たちぐらいのものです。
織田信長や上杉謙信などの武将達と積極的に接近し、意欲的な政治活動を行なった近衛前久。
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今川氏親の正室にして今川義元の生母でありながら領国経営に携わり、「女戦国大名」と呼ばれた女傑・寿桂尼。
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細川ガラシャが味土野で幽閉生活を送っていた時に、彼女を傍らで支え、信仰でも深く結ばれていた、公家・清原枝賢の娘である“いと(洗礼名マリア)”など。
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果たして有能な公家は、上記の3名ぐらいだったのか?
いえいえ、そんなはずはないでしょう。
僭越ながら今回私は、その説に異を唱えながら、信玄の妻・三条夫人の生涯を振り返ってみたいと思います。
信玄・三条夫妻の仲は悪かった?
信玄と三条夫人の夫婦は、元々何の共通点もないゆえに仲も悪い――と表現されることが多々あります。
しかし実際は、二人とも仏教への深い信仰、という大きな共通点がありました。
信玄の信仰心は、意地悪な見方をしますと「領地拡大のために偽装したもの」という指摘もございますが、それでも熱心に仏教を保護していたのは間違いなく、自身も大僧正としての位も有しておりました。
ライバル・上杉謙信も信仰心の篤い武将として知られますよね。
この時代に生きている戦国武将ならば、合戦での勝利や領土の拡大、軍事力の増強など、「現世利益」は完全には分かち難いものであったでしょう。
そこで、政治・軍事のリアルと、自身の信仰心で、バランスを取ろうとしていたのではないでしょうか?
このように武将たちには純粋な信仰心だけでは済まない、実利を願う気持ちも付き物です。
象徴とも言える存在が、信玄も陣中の守り本尊としていた、戦いの守護神・勝軍地蔵でしょう。
地蔵菩薩というと、衆生を救う慈悲の化身という印象が強いかもしれませんが、武士が台頭する鎌倉時代になってからは戦勝祈願の軍神である地蔵菩薩が誕生し、数多の武士から尊崇も集めておりました。
信玄正室の三条夫人も、もとは信仰心に篤い公家である「転法輪三条家」の娘です。
しかも彼女は、通常の公家社会で信仰されていた天台宗だけでなく、臨済宗などにも帰依していた様子がうかがえます。
信玄が保護した快川和尚の言葉で、三条夫人の菩提寺が臨済宗・寺円光院に選ばれただけでなく、生前から帰依していたということも、述べられております。
もしも本当に彼女が鼻持ちならない貴族の女性で、夫のことを「甲斐の山猿」などと罵るような女性でしたら、わざわざその信仰までも、摺り合わせる必要があるでしょうか。
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