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【三条夫人】
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家康正室のイメージも踏襲されたのでは
ほとんど具体的根拠及び文献もないまま長年に渡り、悪妻とされてきた三条夫人のイメージ。
それは息子の武田義信が信玄に歯向かい、そして死したことも(一説には病死とも)、大きく影響しているのでしょう。
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神君・家康公の名を貶めないよう、その正室・築山殿と息子の松平信康が処罰された話が、あたかも完全に2人の責任、特に築山殿が悪女であったことに原因を求めようとする構図(あるいは織田信長の責任)と、似ている気がしてなりません。
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信玄を英雄として崇拝するあまりに、義信事件といういわば彼の影の部分を三条夫人になすりつけ、紋切り型の悪女として彼女一人に負わせようとしているのではなかろうか……。
武田信玄という稀代の英雄の騒乱だっただけに、夫人も、嫡男義信とセットで悪女とされた方が、後に描かれる物語の中で大衆を納得させやすいイメージだったハズです。
これとは対照的に、武田家の跡継ぎとなった武田勝頼、その母・諏訪御料人が、ほとんど関連史料がないにも関わらず、常に美人薄命に描かれ、華奢なヒロインとして現代に伝えられているのも、同時に三条夫人の名を貶めるのに、影響している気がしてなりません。
そもそも、彼女達がまるで正反対の善悪形式で描かれているのも、その大きな証拠であると思われます。
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すべては、作られた物語。
それが読者や視聴者にとってスムーズに共感できるよう描かれているからこその悪妻イメージだと見ております。
また、こうした諏訪御料人の美人薄命のイメージが、一般読者に好まれやすいということも、大きいでしょう。
中央とのパイプも三条夫人の助力あればこそ
武田信玄というと、専ら甲信越方面における合戦ばかりが注目され、京方面への行動は無視されがちです。
しかし、信玄が中央政界での政治・軍事行動を起こすにあたり、三条夫人の助力は不可欠だったのではないでしょうか。
彼女の親戚筋を通じて得た公家や管領・細川晴元、そして本願寺・顕如らとのコネクションは、確たる信頼を築くのに大変有効に働き、かつ信玄自身も、それをフルに利用したことが指摘されています。
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そしてその大きな成果が、後年の信長包囲網でしょう。
残念ながら道半ばで死した信玄ですが、武田家が実際の軍事行動(西上)へ繋げるにあたり、三条夫人が姉の管領正室を通じて間接的な働きかけを行い、一役買っていたことは想像に難くありません。
そもそも、公家の姫と言いますと、何もできない、役立たずという見方が多々あります。
が、三条夫人にまでそれを当てはめるのは、いささか乱暴ではないでしょうか。
先程も触れましたように今川義元の母・寿桂尼のような女性は、色んな作中で非常に有能な女性として描かれます。
息子の義元亡き後、女だてらに同家をまとめた手腕は、素晴らしいものだと思います。
それを彼女個人だけの、ごく稀なケースと見る方が無理があるでしょう。
実は著名な戦国武将の公家出身の正室で、最後まで添い遂げているのは、寿桂尼とこの三条夫人くらいのものです。
朝倉義景は正室(近衛前久の娘)と、大内義隆も正室(万里小路貞子)と離婚しております。
武家での生活に適応できない。
正室としての存在感を示すことができない。
たしかに武家に嫁いだ公家の姫達が、そんな傾向を持っていたことを否定はしません。
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ただ、それと三条夫人までを一律に混同するのは、何か違うと思うのです。
彼女は寿桂尼と同様、公家の姫として陰ながら信玄に貢献していた様子が何かと窺えます。
悪妻どころか、実際には仏教の教えに従って、自分を厳しく律するタイプ。
そんな高潔な女性でありながら、周囲の人々には温かな印象を与える和やかな女性像が、調べれば調べるほど垣間見えてくるのです。
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