1580年7月28日(天正8年6月17日)は、蘆名家を代表する16代当主・蘆名盛氏の命日です。
『信長の野望』はじめ、各種ゲームにも登場するのでご存知の方もいらっしゃるでしょう。
彼の生涯を見る上で、最初に考えておきたいのが、隣国・伊達政宗のことです。
もし十年、あるいは二十年早く生まれていたら天下も狙えたのでは?
なんて話題が戦国ファンの間で盛り上がったりしますが、これはあくまで「盛った話」であり、むしろ政宗は、よい時代に生まれたとも言えます。
なぜならそれ以前の戦国最盛期には、伊達家の南に蘆名盛氏がいたからです。
蘆名一族は長い間、東北の玄関口・会津を支配してきた有力一族。
その中でも中興の祖とされる蘆名盛氏が政宗と同時代に生きていたら、逆にやられたのではないか?
そう思われるほど盛氏は堅実な能力の持ち主でした。
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蘆名盛氏の正室は伊達家の娘(イトコ)
蘆名盛氏は大永元年(1521年)に生誕。
父は蘆名15代当主・蘆名盛舜(あしなもりきよ)です。
東北の同世代としては政宗の祖父・伊達晴宗(1519-1578)であり、実年齢も2歳下ですね。
このころ伊達家の当主は、晴宗の父・伊達稙宗(1488-1565)であり、勢力拡大中だった稙宗は、婚姻で次々に周囲へと影響力を広げておりました。
なんせ彼は14男7女に恵まれ、それを徹底的に活かし、盛氏の正室にも自身の娘を嫁がせています。
そもそも稙宗の正室・秦心院は、蘆名家13代当主・蘆名盛高の娘でした。
ざっくりまとめると、蘆名盛氏とその正室・伊達家の娘は、イトコ同士の結婚ということです。
伊達稙宗は、こうした婚姻関係を四方八方へ広げたため、伊達政宗の時代になって他のエリアの武将たちから、こう突っ込まれたそうです。
「奥羽の大名って親戚ばかりじゃない? やりすぎだろw」
確かに現代人からもそう突っ込みたくなります。
これもすべては伊達家の政策の結果であり、しかも数代にわたって続いたものですから、いざ合戦をするにしたってドコとドコは親戚で……という状態。
ひとたび伊達家が揉めると、途端に奥羽各地で身内同士とも言える火花が舞い上がることになったのです。
しかし政宗の父・伊達輝宗は、出羽の最上家から正室(義姫)を迎えていて、太平洋側での親戚関係は以前よりも繋がりが薄くなったため、息子の政宗が合戦で領土拡大をしやすかったという環境もあります。
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奥羽では、やはり伊達家の影響が大きいのです。
そして、そうこうしている間に、伊達家で親子喧嘩【天文の乱】が勃発。
蘆名盛氏に活躍の機会がやってくるのでした。
天文の乱では義兄の味方となり勢力拡大
天文11年(1542年)から天文16年(1547年)にかけて起きた【天文の乱】。
それは奥羽全体を巻き込む、伊達家の親子喧嘩でした。
対立はこうなります。
【天文の乱】
伊達家第14代・稙宗
vs
伊達家第15代・晴宗
理由はこんなところでした。
稙宗「お前の弟・実元を上杉貞実の養子にしちゃおうかな」
晴宗「やめてください、父上、監禁先の西山城で頭を冷やしなさい!」
しょうもない親子喧嘩ではありますが、周囲の親戚中を巻き込むからややこしくなる。
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「相馬顕胤さん、田村隆顕さん、二階堂輝行さん、蘆名盛氏さん! 親戚の伊達家が喧嘩していますよ!」
「そりゃ大変だべ!」
「最上義守です! 出羽も忘れないでぇ〜」
義守にとって伊達家は、義理の母にあたる最上義定の正室が伊達出身でした。
他の周辺武家と比べて、最上―伊達の繋がりは若干薄いものの、心情的には伊達依存症気味と言えましょうか。
そしてこのあと、ややこしいことになります。
伊達家の親子喧嘩に巻き込まれたとはいえ、皆それぞれの利害を見ながら戦うわけです。
これが東北戦国史を複雑にしている一つの要因でしょう。
蘆名盛氏は、こんな判断をしました。

蘆名盛氏/wikipediaより引用
「田村と二階堂が嫌なので、義兄の伊達晴宗さんに味方します!」
盛氏は巧みに立ち回り、蘆名家は奥羽の雄であると示すべく働きます。
かくして親戚同士で争い、安積方面(現在の福島県中通り)にまで武威を拡張。
永禄4年(1561年)には向羽黒山城(福島県大沼郡会津美里町)建築に着手するのでした。
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