元禄二年(1689年)7月28日は、松平信平が亡くなった日です。
「松平」とくれば徳川家の親戚に与えられる名字ですから、当然、徳川の血を引く人だと思いますよね?
しかし、彼がこの姓を名乗るまでには、一風変わった経緯があったのです。
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公家の中でも最高クラス・鷹司家の庶子
松平信平は寛永十三年(1636年)、公家の中でも最高クラスの名家・鷹司信房の庶子として生まれました。
元々は武士ではなくて公家の生まれなのです。
しかし、庶子の上に兄もいたため、信平は他の公家へ養子に行くか、お寺に入るしか選択肢がない……はずでした。
どんな理由なのか不明ながら、信平はどちらの道も断固拒否。
15歳になると、従者を一人だけ連れて家を出て行ってしまいます。
なんというクソ度胸でしょうか。
これだけならただの向こう見ずなお坊ちゃまの暴発ですが、彼にはアテがありました。
ときの将軍は三代・徳川家光――その正室が信平の姉・孝子だったのです。
つまり、姉の嫁ぎ先を頼りに京都からはるばる江戸へ下っていったということになります。
ただし、孝子は慶長七年(1602年)生まれで、11歳のときに江戸へ下っているので、信平とは会ったこともありません。よくそれで頼ろうと思ったものです。
そもそも、無事にたどり着けたのが凄い。従者がよほど腕の立つ人だったんでしょうか。
ちなみに父の鷹司信房は永禄八年(1565年)生まれですから、孝子は37歳、信平は71歳(!)のときの子供になります。生涯現役すぎ。
上野や上総に7,000石の領地を与えられ
松平信平の行動には、さすがの家光も面食らったでしょう。
しかし、元から武辺話など思い切ったものが好きな家光です。
信平を旗本として取り立て、暮らしと身分が立つようにしてやりました。
家光は結婚当初から孝子を嫌っていましたが、その弟は別だったようです。
信平もあえて姉に会おうとしなかったのか、会っても特に何の感慨もなかったのか、姉弟のエピソードは見当たりません。
家光が亡くなって徳川家綱に代替わりした頃、信平は紀州藩主徳川頼宣の娘・松姫を正室にもらいました。
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その翌年、御三家の縁戚になったということで松平姓を許され、従四位下・左近衛少将に任官されています。
自身の父・鷹司信房を見舞うため上洛したこともあるようですが、さぞかしトーチャンはびっくりしたでしょうね。
姉・孝子の死に際しては、上野(現・群馬県)や上総(現・千葉県)などに、家綱から合わせて7000石の領地を与えられました。
「なぜに身内が亡くなって加増?」という気もしますが、これは家光・孝子・家綱の複雑なようなそうでないような関係から来ているかもしれません。
というのも、家光は生涯孝子を正室扱いせず、家綱を養子縁組させなかったのです。
通常であれば、側室が産んだ子は正室と養子縁組をさせることで身分を整えるのが常識でした。
そこまで家光が孝子を嫌っていたということになるので、何とも寂しい話ではあります。
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