その評価が最も辛辣にくだされるのが、御家を滅ぼしてしまった戦国武将でしょう。
生涯の事績を見れば有能であるのに、最後の一手を誤ってしまったがために、現代においては愚将扱いされてしまう。
最たる例が北条氏政ではないでしょうか。
北条早雲から始まり、北条氏綱、氏康へとバトンが渡された後北条氏五代の四代目。
その実態は、単なるボンボンではなく、偉大だった父・氏康の跡を継ぎ、関東に覇権を確立させた名将とも言える存在です。
それが天正18年(1590年)7月11日、秀吉に敗れて自害させられたため、凡愚の烙印を押されがちな氏政ですが、果たして生前はいかなる功績があったのか?
北条氏四代目・氏政の生涯に注目してみましょう。
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北条氏政の出自と彼を支えた優秀な兄弟衆たち
北条氏政は、天文8年(1539年)ごろに北条氏三代当主・北条氏康の次男として誕生しました。
母は氏政正室の瑞渓院。
彼には北条氏親という兄がいたため、当初は嫡男という扱いを受けてはいません。
ところが天文21年(1552年)に兄の氏親が16歳の若さで亡くなってしまい、氏政が彼に代わって嫡男となります。
歴代の当主候補が名乗る「新九郎」の仮名を背負った氏政は、その後、筋書き通りに家督を譲られることとなりました。
ここで注目したいのが「兄弟衆」の存在です。
氏政が北条氏四代当主となってから、政治・軍事の両面で中心的な役割を果たしたのが、氏政の四人の弟たちでした。
三男・北条氏照
四男・北条氏邦
五男・北条氏規
彼等が北条家臣として活躍するのです。
さらに、「兄弟衆」として活躍することはなかったものの、六男にして氏政の異母弟である上杉景虎も重要な人物。
上杉氏の家督争いである【御館の乱】に北条氏が介入する際のキーマンになってくるので、名前だけでも覚えておいてください。
かくして氏政は父と母の残した兄弟たちとともに、猛者ひしめく関東地方において存在感を発揮していきます。
家督継承当時は限定的な役割にとどまるが
永禄2年(1559年)、北条氏政は父から家督を譲られ、北条氏四代当主として活動を開始します。
しかし、この家督継承には、ある理由がありました。
数年前から続く飢饉による領国の疲弊を受け、危機的状況に対応するため「新たな王」を形式的に用意したのです。
なぜこんなことをするのか?
というと、代替わりの「徳政令」を実施することにより、領民の不平不満を解消するのですね。
実際、就任の翌年、氏政の名において「領域に対する徳政令」が出され、名目的な当主の交代が重要であったことが理解できます。
つまり、氏康にしてみれば、上記の家督継承について「本当はもう少し後になってから家督を与えたかったんだけど…」という心もちであったと推測され、その証拠にしばらくは氏康が中心となって政治・軍事を主導しました。
※以下は北条氏康の考察記事となります
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この間を通じて、氏政への政権移譲は少しずつ実施。
家中は図らずも「氏政の北条氏当主研修期間」のような状況になっていたと考えられます。
そして家督継承からおおよそ6年ほど経過した永禄8年(1565年)、氏政の活動量や活動内容が氏康を上回るようになり、同年末から彼は戦に出陣しないようになっていきます。
氏康が実質的な隠居状態になったことを示しており、いよいよ氏政が北条氏当主としての歩みをスタートさせていくことになります。
謙信の猛攻をしのぐも今度は信玄が裏切り
とはいえ戦国期ですから、北条氏政の「見習い当主」も決してラクではありません。
なんせこの頃の北条氏は上杉謙信の侵攻を受けており、永禄4年(1561年)には一家の歴史上初めてとなる本拠・小田原城への攻撃を許してしまいます。
このときは謙信の攻勢をしのぎ切って撤退へと追い込み、その後、謙信へ協力した国衆を各個撃破していくことで優位性を確立。
関東での争いは地の利もあって、変わらず北条氏が一歩リードする形となりました。
氏政が本格的に家督を継承したのはちょうど上杉氏に対して優位な局面を迎えたこの段階であり、彼は父の路線を踏襲して謙信と対立するつもりであったことでしょう。
しかし天文23年(1554年)、突如、周辺のバランスが崩れます。
「甲相駿三国同盟」によって同盟関係にあった武田信玄が、同じく協定を結んでいた今川氏真へ攻め込んだのです。
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同盟相手が同盟相手に攻め込む――。
実質的な家督継承直後に舞い込んだ難題に、氏政は頭を抱えたかもしれません。
結局、彼は武田を捨て、今川への味方を決断し、同盟の証として武田氏から迎えていた正室・黄梅院を離縁して、甲斐へと送り返さなければなりませんでした。
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また、武田氏との対立が決定的になったことで、これまでしのぎを削っていた上杉氏が彼らと敵対していることに注目。
「敵の敵は味方」理論で永禄12年(1569年)には越相同盟を成立させます。
同盟締結に際しては「関東管領職」や「領土の割譲」および先に触れた「上杉景虎を養子として謙信のもとへ送る」など、氏政側が大幅な譲歩を強いられましたが、「全ては武田と戦うため!」と甘んじてこの条件を受け入れます。
ところが北条氏は、武田氏との抗争において、謙信からの支援を満足に得られません。
結果として謙信にしてやられた氏政は、武田信玄の猛攻によって危機的状況へと陥ってしまいます。
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