上杉景勝の肖像画

上杉景勝/wikipediaより引用

武田・上杉家

謙信の死後に上杉家が真っ二つに割れた「御館の乱」なぜ景勝と景虎は激突した?

2025/03/12

天正6年(1578年)3月13日に、越後の龍こと上杉謙信が突然亡くなったとき、残された上杉家の人々は大いに困りました。

遠征に行く予定で進めていた準備がほぼ無駄になってしまったこともありますが、何より大きかったのがコレ。

【跡継ぎ問題】です。

後継者を誰にするか――それを決める(発表する)前に謙信が亡くなってしまったからさぁ大変だ。

上杉謙信の甥っ子・上杉景勝と、後北条家からの養子・上杉景虎(北条氏康の息子)で家中を二分する大騒動【御館の乱】に発展してしまいました。。

上杉景勝(謙信の甥)
vs
上杉景虎(謙信の養子)

謙信の養子血の繋がりからすると『景勝一択じゃないの???』と思ってしまうかもしれません。

しかし勢力が拮抗しなければ、そもそも戦いなど起きないわけで、最初からどちらかが余裕という状況ではありません。

織田信長との戦いも続いていた大切な時期に、なぜ両者は揉めたのか?

上杉景勝/wikipediaより引用

【御館の乱】一連の流れを追ってみましょう。

 


謙信の死後1年も内輪揉めした御館の乱

天正六年(1578年)3月13日から天正七年(1579年)3月17日まで。

【御館の乱】は謙信の死後、約一年間も続きました。

すでに武田信玄も亡くなっていて南からの脅威は薄れていたとはいえ、この時代の御家騒動は他国からつけ入れられる格好の的となります。

上杉謙信(左)と武田信玄/wikipediaより引用

それでも戦わざるを得ない理由がいくつかありました。

春日山城で亡くなった謙信の意思が不明なことに加え、周囲の扱いからしてもどちらが後継者と言い切れない状態だったのです。

例えば、”景虎”は謙信の元服直後の名前だったため「名前を継がせたのだから、謙信は景虎を後継者にするつもりだったに違いない」という考え方ができます。

対して景勝は「御中城様」という呼び方をされていて、「上杉家御軍役帳」の一門衆筆頭に挙げられています。

このことから景虎はカタチだけの養子だけではないか?とされてきたのですが、近年、「景虎が軍役を課す立場=家督相続」だったから軍役帳に名がないのでは?という見方も浮上しています。

そもそも景虎は、継室に上杉謙信の姪である清円院(上杉景勝の姉妹)を迎えているのです。

 


外から支援を求めるか 内から固めるか

さらに、上杉家臣だけでなく、周辺大名の思惑も真っ二つに分かれていました。

景虎は実家である後北条氏(父=北条氏康・兄=北条氏政)はもちろん、その同盟つながりで武田勝頼、伊達輝宗、ほか近隣の大名が味方しました。

景勝は?というと、謙信の側近中の側近だった家臣たちや、謙信の他の養子二人、そして上杉家本拠である春日山城周辺と景勝自身の地元から多くの味方を得ています。

構図としてはこんな感じで。

・家中では景勝

・外部からは景虎

概ね、各種の思惑が次期当主をめぐって渦巻いていたのです。

条件としてはほぼ互角だったゆえに互いの主張がぶつかり、そこで先に行動を起こしたのが景勝でした。

天正六年(1578年)3月、景勝は謙信死去の報を受けるや春日山城本丸(実城みじょう)に入って景虎一派が入ってこれぬよう、防御を固めたのです。

春日山城

このとき直江景綱の妻が「上杉家の家督は景勝でしょうか?」と死の直前の謙信に問いかけ、うなずいたというエピソードがありますが、景勝サイドの宣伝と見られています。

ともかく拠点を先に制した利は非常に大きかった。

景勝一派が2万7,000両ともいう軍資金や武器庫を制圧。

さらには

「遺言に基づいて春日山城に来ました! 以降、当主になりますんで、よろしく!」

という宣言を出したのです。

こうした書状には重臣達の連署もあり、景勝が後継になることは正当なものであると念を押すカタチになりました。

なお、謙信には他にも養子がおり、その一人・上条政繁は景勝の春日山城占拠に手を貸しております。

しかし、景虎サイドがこれを承諾するはずもなく、小競り合いからやがて【御館の乱】に発展していった――そんな流れです。

 

均衡する両陣営の武将たち

戦の経過から、二人の方針の違いはよく見て取れます。

上記の通り、景虎は外部の大名を引き込むような形で助力を得ようとしましたが、景勝は先に春日山城や謙信の書状など物的証拠を押さえることを重視しています。

ただ、外部に対して何もしてないわけではなく、会津の蘆名氏に家督継承した旨を伝えるなど既成事実化を推し進めています。

蘆名盛氏/wikipediaより引用

現代の相続における裁判で無理やり例えるとすると、景虎が敏腕弁護士を集めたのに対し、景勝は故人の日記や通帳・印鑑などを確保したというところでしょうか。かなり大雑把ですが。

両陣営の上杉家有力者も見ておきましょう。これが中々興味深いです。

【景勝派】
本庄繁長・斎藤朝信・柿崎憲家・直江景綱・河田長親・新発田重家

【景虎派】
神余親綱・堀江宗親・本庄秀綱・北条高広&景広・前島修理亮

いずれも戦国ファンには名の知れた武将が並び、一人注目するとしたら北条高広(きたじょうたかひろ)と北条景広の親子でしょうか。

名前からして後北条氏の親類?と思ってしまうかもしれませんが、さにあらず。

北条高広は上杉家や北条家の間で主家を行ったり来たりした歴戦の古強者ふるつわものであり、景虎を強力に支援します。

こうなると俄然景虎が有利な気もしてきます。関東と越後をつなぐ要衝に味方ができたのですから、北条氏のバックアップも受けやすい。

ただ、こうも思いませんか?

春日山城の本丸を押さえられた景虎が、なぜ1年もの間、戦うことができたのか――それは景虎が天正6年(1578年)5月から拠点にしていた「御館」に秘密がありました。

 


直江津を押さえた景虎も負けてはおらず

御館は、字面からして一般的な武家屋敷をイメージするかもしれません。

しかし、事実上の平城であり、周囲は土塁と堀(最大幅20m)に囲まれておりました。

確固たる防御拠点がなければ戦えませんよね。

この「御館」から【御館の乱】と呼ばれるのですが、この城にはもう一つ大きなポイントがありました。

直江津の港を押さえることができたのです。

日本海有数の港である直江津は、敵である景勝の経済を封鎖すると同時に、自身の流通を大いに有利に運ぶことができました。

さらには上杉憲政も味方にして、家督の正当性についても十分に資格を有するカタチに持ち込むのです。

そして実家の北条氏や武田氏の助力も得るだけでなく、蘆名氏や伊達氏までもが景虎に味方をすることになり、景勝はまさに四面楚歌になりつつありました。

と、ここで景虎陣営に激震が走ります。

有力な味方の一人であった武田勝頼が、突如、中立姿勢に傾けたのです。

景虎軍にとっては、景勝サイドに回ったとも見えたでしょう。

 

勝頼の妹・菊姫と景勝の婚姻も決まり……

ではなぜ勝頼は、急に中立姿勢を取ったのか?

莫大なカネが動いたと言います。

武田信玄を失ってから【長篠の戦い】で負けるなど、その行く末に暗雲が立ち込め始めていた武田勝頼。

武田勝頼/wikipediaより引用

金1万両に加えて、東上野の領地割譲――という途方も無い人参をぶら下げられました。

と言っても、景勝支持を表明したワケではありません。

そもそも、御館の乱が勃発してからは、同盟相手・北条氏の意向を受け、武田信豊に信越国境まで出陣をさせていました。

強力な北条を敵に回すのは得策ではなく、景虎支援を明確にしていました。

しかし、その北条氏がなかなか越後に向けて進軍しないため焦燥を覚え、さらには景勝に巨額の人参をぶら下げられ、そこで勝頼が提案したのが

【景勝と景虎の和睦】

でした。

両者がまとまり御館の乱に終止符が打たれれば、北条を敵にすることなく上杉からの金もゲット。

武田としては万々歳ですが、そう上手くいくはずもなく、いったんは成立に漕ぎ着けた景勝・景虎の和平もすぐに破綻してしまいます。

というのも、徳川家康が駿河田中城へ進軍し、勝頼自身の背後が脅かされたため、武田軍を帰国させたのです。

徳川家康/wikipediaより引用

あくまで中立姿勢ながら、どこかフラフラとした武田勝頼

このころ上杉景勝は「武田との同盟が成功した!」と大袈裟に喧伝し、景虎陣営に揺さぶりをかけていました。

しかし、ここで折れるほど景虎陣営も脆弱ではありません。

ついには北条氏照が軍勢を率いて北上し、樺沢城を陥落、ここを拠点に坂戸城や春日山城への攻撃を始めるのです。

坂戸城は、上田長尾氏の本拠地で、景勝生誕の地ともされているだけでなく、銀山や穀倉地帯を抱えた非常に重要な拠点でした。

景勝は一転してピンチに陥ったのです。

 

これ以上揉めてたら織田家に潰されてた?

ところが、です。北条氏照は、ここから徐々に軍を引いてしまいます。

理由は“豪雪”でした。

敵陣へと進み、孤立を恐れた北条軍は帰国してしまい、戦況は逆転。

兵を分散せざるを得なかった景虎軍は守勢に回され、そして天正七年(1579年)3月17日、いよいよ事態は動きます。

景勝が御館へ総攻撃をかけて攻め落とし、内乱が終結へ向かうのでした。

景虎は一度は逃げたものの、味方であったはずの城に立ち寄ったところで裏切られ、結局、自害。

しかしそれで越後の将全てが納得したわけではなく、最後までゴネた人々をまとめるまでには、さらに一年ほど時間がかかっています。

ちなみにこの間、織田家が「謙信以外なら怖くないぜイヤッホォォオオウ!!」とばかりに攻め込んできています。

攻め込んだのは斎藤利治で【月岡野の戦い】と呼ばれます。詳細は以下の記事にあるように、

斎藤利治
道三の末子・斎藤利治|信長の命で上杉軍を相手に「月岡野の戦い」で快勝

続きを見る

上杉側が負けていますので、もしもっと長引いていれば同家の存続自体が危うかったかもしれません。

なにせ【本能寺の変(1582年)】まで、まだ3年以上の月日がありましたから。

こうしてギリギリのタイミングで内乱を収めることができた景勝。

その後は織田信長との戦いや、豊臣秀吉からの無茶振りなどを受け、新たな困難に立ち向かっていくことになります。

織田信長/wikipediaより引用

なんだかんだで上杉は時代の中心にいるのが凄い。

信長と秀吉の死後は【直江状】で知られる徳川家康との争いから関ヶ原の戦いを勃発させ、伊達政宗最上義光と【慶長出羽合戦】を起こし、その後120万石→30万石へ転落します。

そして、むちゃくちゃ厳しい経済状態で江戸時代へと進んでいくのですね。

まさに歴史は脈々と続くものだということ、御館の乱はその転換点だったことを痛感させる事件でした。

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【参考】
国史大辞典
桐野作人『<家督相続と戦国時代>上杉謙信の死と相続問題』(→amazon
橋場日月『<上杉家と戦国時代>景勝VS景虎 血で血を洗う上杉家の家督争い』(→amazon
御館の乱/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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