大河ドラマ『豊臣兄弟』の第17回放送で注目された武田信玄。
名優・高嶋政伸さんが画面に登場したかと思ったら、数分後には「餅を喉に詰まらせて死ぬ」という衝撃的な姿が描かれ、放送後もSNSなどで話題となりました。
一般に病没と知られている信玄だけに、餅で窒息死なんてあり得るのか? ドラマの脚色にしても何か元ネタになった逸話などがあるのか? と物議を醸しているのです。
いったい史実の武田信玄は、どんな最期を迎えたのか――振り返ってみましょう。

西上作戦の目的は上洛だったのか
武田信玄の死は、元亀三年(1572年)秋に始まる武田軍「西上作戦」の最中に訪れました。
10月に甲斐を出発して、遠江・三河・美濃へと侵攻していった、この西上作戦。
かつては「上洛」が目的だと語られていましたが、京都までの進軍は非現実的な話でもあり、近年では遠江・三河など徳川領の攻略を主目的とする見方が有力ですね。
武田家と徳川家は、今川家への侵攻を機にトラブルが起き、関係が最悪となっていました。
しかも信玄は、家康のことをかなり格下に見ていた節があります。
自身の死期を悟っていたかどうかは不明ですが、少しでも領土を拡張しておきたい野望は、常に燃やしていたことでしょう。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons
一方、微妙だったのが武田家と織田家の関係です。
両家は永禄八年(1565年)11月に甲尾同盟が成立。
元亀三年(1572年)10月に信玄が甲斐を出発した時点でも同盟は保たれており、いざ武田軍が徳川領へ侵攻すれば
「信長は家康を見捨てる」
と信玄は考えていたともされます。
そこで元亀三年(1572年)12月に勃発したのが「三方ヶ原の戦い」でした。
三方ヶ原の戦い
元亀三年(1572年)12月22日、浜松城の前に武田軍の姿が現れました。
武田軍は攻めるポーズを取りながら、素通りするような動きを見せたとされます。
信玄の挑発的な動きにキレた徳川家康が城を飛び出し、武田軍を追いかけると、もはや信玄の罠に落ちたも同然、三方ヶ原の地で徳川軍は大敗したのです。
老獪な武田信玄を前に振り回される若き日の徳川家康という構図ですね。

絵・富永商太
問題は、このとき信長が、徳川へ援軍を派遣していたことでしょう。
佐久間信盛、平手汎秀、水野信元らと共に3,000~5,000。
兵数は少なくても「信長は家康を見捨てない=信玄とは袂を分かつ」という構図となり、武田家と織田家の関係は事実上の決裂です。
実はこの頃から、信玄の体調には異変が生じていたと考えられていますが、織田家が明確に敵対関係となったからには、そこで進軍を止めるわけにもいかなかったでしょう。
同盟を無視して援軍を送った織田に対し、何らかの報復を仕掛ける必要がある。
そこで武田軍が次に向かったのが野田城でした。
野田城の戦いと発病
元亀四年(1573年)1月、武田軍は三河の野田城(現在の愛知県新城市)を包囲しました。
とても武田軍に対抗できるとは思えない小城ながら、降伏勧告を拒絶する野田城。
力攻めを避けた武田軍は、金掘衆(かなほりしゅう)を使って水を断つなど、時間をかけた攻略を進める。
そして2月16日には開城させるのですが、この野田城攻略の前後から、信玄の病状は悪化していたと考えられます。
もはや、西進は断念するしかない武田軍。
甲斐への撤退を始め、3月上旬に長篠付近で療養し、4月上旬になると病状が絶望的となったため、さらに信濃へと軍を戻していきます。
そして元亀4年(1573年)4月12日、信濃駒場(こまんば・現在の長野県下伊那郡阿智村)付近で武田信玄は死去しました。

武田信玄の最期を描いた月岡芳年の浮世絵/wikipediaより引用
享年53。
死因は確定しておらず、胃癌、肺結核、日本住血吸虫症など諸説あります。
日本住血吸虫症は、水田や水路などで寄生虫が皮膚から体内へ入り、肝臓などに障害を起こす感染症です。
武田家臣の小幡昌盛もこの病で亡くなったと伝えられ、詳細は以下の記事をご覧ください。
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武田二十四将・小幡昌盛も犠牲者か?田んぼに入った人を殺す恐怖の日本住血吸虫症
続きを見る
死は三年間秘しておくべし
『甲陽軍鑑』などによると、信玄は死の直前、武田勝頼や重臣たちに以下のような遺言を残したとされています。
◆自分の死は三年間秘しておくべし
◆勝頼は嫡男の武田信勝が成人するまでの後見(陣代)を務めよ
◆無謀な戦いはせず領国を固めるべし
◆上杉謙信を頼りにせよ(謙信は義理を重んじる男ゆえ、頼れば無碍にはしないという趣旨)
武田家は信玄の死後、弟の武田信廉を影武者に立てるなどして、外部に対しては「信玄は病気療養中である」と装い続けたともされます。
ただし、こうした遺言や影武者話をどこまで史実として受け取るかには注意が必要です。
少なくとも、武田軍が動きを止めて撤退したことは、信長にとって大きな情勢変化として受け止められたはずです。
例えば、信玄が西上作戦を打ち切って帰国すると、その後、織田信長は、足利義昭を京都から追い出し、朝倉義景と浅井長政も続けざまに滅ぼしています。
信玄の脅威など、まるで感じていないかのように軍を動かしているのです。

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
実際その死から2年後の天正三年(1575年)5月21日には、両軍の間で「長篠の戦い」が勃発しており、勝頼もまた、信玄死後の現実を前提に織田・徳川との対決へ進んでいったと言えます。
そもそも武田信玄が亡くなる以前から、病状のことはそれとなく周囲へ伝わっていたのでしょう。
ゆえに「死因も何らかの病気」と考えるのが自然ですが、本記事では他にも一応見ておきたいと思います。
餅を喉に詰まらせた 元ネタは?
武田信玄は病死以外にどんな死因が語られてきたのか。
「餅を喉に詰まらせた」という話の元ネタはあるのか。
諸説を見てみましょう。
野田城での鉄砲傷説
最も有名な異説が「野田城で鉄砲に撃たれた」というものです。
野田城を包囲していたとき、城内から聞こえる美しい笛の音に誘われた信玄。
フラッと近づいたところを城兵の村松芳休(むらまつ ほうきゅう)に狙撃され、その傷が原因で死んだとされます。
この説は江戸後期に編纂された『徳川実紀』などに見えますが、武田側の史料で確認できる話ではなく、後世の脚色と見るのが一般的です。
影武者・武田信廉説
信玄が死んだ際、嫡男の勝頼が若かったため、弟の武田信廉が数年にわたって信玄になりすまし、諸大名や家臣を欺いたという話があります。
出典は『甲陽軍鑑』であり、なかなか刺激的な展開のため多くの人に知られており、黒澤明監督の映画『影武者』のモデルにもなりました。
信廉と信玄が似ていたという話はよく知られています。
しかし、完全になりすましていたという点には疑問が残ります。

武田信廉が描いたのでは?とされる武田信玄像/wikipediaより引用
餅を喉に詰まらせた説
大河ドラマ『豊臣兄弟』で話題になった「餅を喉に詰まらせた」という死因。
残念ながら有名な元ネタも思いつきません。
少なくとも一般的な信玄の死因説として広く知られるものではなく、主要な概説書でも通説としては扱われていない。
「信玄餅が有名だから、餅つながりでいーじゃん!」
一番怖いのは、こんな風に脚本家氏が思いつきで盛り込んだパターンですかね。
なんなら「フィクションなんだから、そんなに堅苦しく考えないで!」と諭されそうで、妙な敗北感に包まれています。
同じく大河ドラマ『豊臣兄弟』で話題となった浅井長政の最期については「浅井 長政の最期は史実ではどうだった?」をご覧ください。
四方八方へ謀略を巡らせ、信濃の諸勢力、上杉、今川、北条と戦い続けた戦国最強の信玄――こちらについては別記事で「武田 信玄の生涯」へ。
参考文献
奥野高広『武田信玄』(2022年4月 吉川弘文館)
平山優『武田信玄』(2006年5月 吉川弘文館)
鴨川達夫『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像』(2007年2月 岩波書店)
柴辻俊六『武田信玄合戦録』(2006年10月 KADOKAWA)
平山優『図説 武田信玄』(2021年4月 戎光祥出版)
鈴木将典『武田氏の戦争と内政』(2019年9月 星海社)
丸島和洋『武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち』(2021年12月 潮出版社)
萩原三雄『武田信玄 謎解き散歩』(2015年3月 KADOKAWA)

