上杉と秀吉の関係

上杉景勝(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用

武田・上杉家

なぜ上杉家は真っ先に豊臣大名となったのか|秀吉と景勝の利害は一致していた?

2024/09/19

豊臣秀吉が天下人に成り上がり、その死亡後、徳川家康が台頭してくる中で、非常に重要だった大名家はどこか?

その筆頭候補として注目したいのが越後の上杉家です。

上杉謙信は本能寺の変前に病没しており、この頃は当主の上杉景勝と直江兼続が活躍。

この二人が巧妙に豊臣家に取り入るのですが、それ以前の徳川・真田・北条が絡んだ【天正壬午の乱】で当事者だったり、その後【関ヶ原の戦い】のキッカケまで作ります。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

実は、秀吉と徳川の天下に大きく影響していた、越後の雄の行動を振り返ってみましょう。

 


本能寺の変により、窮地を救われた上杉家

天正10年(1582年)、武田家滅亡の年は、上杉景勝も試練の時を迎えていました。

頭痛の種だったのが揚北衆(あがきたしゅう)。

阿賀川が流れる越後北部の国衆であり、押さえつけている間は心強い味方ですが、少しでも隙を見せれば瞬く間に牙を剥いてくる、厄介な存在でした。

そんな揚北衆の一人・新発田重家が、天正9年(1581年)、上杉家に反旗を翻したのです。

背後には恩賞への不満と、外交の妙手である伊達輝宗の手引きがあったとされます。

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しかも重家は、よりにもよって織田信長とも手を組んだのです。

織田家は、本国尾張方面からも圧迫をかけていました。

越後と尾張、両国の間には武田の甲斐がありますが、目に見えて勢いが翳っているところ。

織田・徳川連合軍の侵攻により、天正10年(1582年)にあっさり滅亡すると、次の標的とされたのが上杉家でした。

魚津城が落とされ、織田軍が越中の国境まで迫る中、武田の次は我々か……と、景勝は焦燥したでしょう。

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しかし、その直後に【本能寺の変】が勃発。織田家は上杉攻めどころではなくなります。

景勝は間一髪、窮地を脱したのでした。

このあと上杉家は秀吉に接近し、連絡を取り合うことに成功します。

なお、このころ帰趨を見定めていた真田昌幸が上杉家に接触し、二男の真田信繁(幸村)が人質として送られたとされます。

 


賤ヶ岳の戦いを契機に秀吉へ近づく

豊臣秀吉への接近をはかった上杉景勝。

天正11年(1583年)の【賤ヶ岳の戦い】では、勝家と対峙した秀吉から出兵依頼がありました。

柴田勝家といえば【魚津城の戦い】で激しく攻め立てた相手です。あの柴田を相手にするならば……と上杉軍の士気が高まってもおかしくはありません。

しかし、上杉はこの援軍要請には応じることができません。

背後に新発田重家がいて、なかなか兵を割けなかったのです。

それでも秀吉と上杉の両者は、これを機に同盟が成立します。上杉にとっては仇ともいえる柴田勝家を秀吉が打ち破ったのです。

天下取りへ向かう秀吉――そして、その秀吉にいち早く接近した上杉。

たとえ柴田勝家に勝利しても、まだまだ秀吉には敵がいて、外交を駆使して周囲を牽制する必要があります。

特に、織田信長に仕え、越中を治めていた佐々成政は、まだ服従の気配もなく、上杉からの牽制は非常に効果的でした。

と同時に秀吉は、北陸から駿河へ目を向けました。

信長の遺児である織田信雄が、徳川家康と共に対抗してきたのです。

 

小牧・長久手の戦いでも牽制役

天正12年(1584年)に始まった【小牧・長久手の戦い】は、以下のような対立構図でした。

◆羽柴秀吉
with上杉景勝

vs

◆織田信雄
with徳川家康・佐々成政

兵数では秀吉が信雄・家康連合軍を圧倒している。

しかし戦場では徳川の奮戦もあり、事態は膠着。その理由として、秀吉は「景勝に責任の一端がある」と思わせるようなことを伝えてきます。

「味方が一致団結しないのが苦戦の一因ではないか?」

そして事態打開のため、上杉へ条件を出してきました。

景勝が人質を出し、従属を確固たるものとし、一丸となって当たればよい――。

この指摘は、あながち的外れでもありませんでした。

上杉は新発田を警戒し、思うように秀吉を救援できていない。

秀吉としては上杉を上洛させたい。東国を押さえる上で、北陸のみならず、奥羽ひいては関東にまで影響力がある上杉は非常に役に立つ。

むろん上杉にとっても、織田家の筆頭に躍り出た秀吉に早い段階で味方しておくことは、大きなメリットとなる。

だからでしょう。天正13年(1585年)に秀吉は富山まで来ております。

このとき上杉景勝らと会談したという記述が軍記などに登場するのですが、実際にあったとされる記録は残っていません。

両者の利害が一致していることは間違いなかったでしょう。

 


上洛を果たし、いち早く豊臣大名へ

天正14年(1586年)、ついに上杉景勝が上洛を果たします。

この年の秀吉は、妹・旭を徳川家康の正室とし、さらには母・大政所を駿府に送って、家康にも上洛を促していました。

直前に【天正大地震】が起きたため、力づくで天下を取るのではなく、外交交渉力を用いる方針転換が見て取れます。

越後の上杉家が秀吉の下へ馳せ参じたとなれば、東国にも衝撃を与えたことでしょう。関東の北条がまだ片付かないからには、それがよい手といえます。

【本能寺の変】が起きる前は、未曾有の危機にさらされていた上杉家。

次の天下人となる秀吉にいち早く接近したことで、むしろ大大名としての地位が盤石となったのです。

上杉景勝には、朴訥な印象があります。

実際に威厳があり生真面目で質実剛健であったとされ、上杉家中の気風もそうであったとされます。

しかし、豊臣大名へと駆け上る景勝の戦術は実に巧みです。

秀吉の「人たらし」とうまく合致したのか。石田三成と相性があったのか。才気あふれる直江兼続の手柄か。

表立って目立ちはしないけれども、器用に天下を立ち回る姿が見えてきます。

一方で、そこにはデメリットもあります。

政権中枢へ接近すればするほど、その運営が立ち行かなくなったとき、身の置き所がなくなってしまう。

慶長3年(1598年)8月18日、太閤殿下・秀吉が亡くなるのでした。

 

東北の関ヶ原への道筋が見えてくる

秀吉の生前、上杉家のライバルたちは苦境に立たされていました。

庄内地方を巡って対立していた出羽の最上義光は、秀吉との交渉ルートを探ろうにも、上杉家がネックとなっていた。

そこで最上が頼りにしたのが、東国の押さえに入っきた徳川家康です。

最上義光は【秀次事件】によって娘の駒姫が連座したことにより、秀吉を見限ったとされますが、実際は、ずっと以前から徳川に接近をはかっていました。

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奥羽を代表するもうひとりの大名・伊達政宗も当初は秀吉を評価していましたが、秀次事件を機に、徳川へのシフトを決めたとされます。

そんな陸奥に対して秀吉は、一番の要衝である会津に気脈の通じた蒲生氏郷を置き、睨みを利かせました。

文禄4年(1595年)に氏郷が没すると、まだ幼い蒲生秀行が跡を継ぎますが、陸奥の押さえとするには重みが足りない。

そこで上杉の出番となります。

越後から会津へ移封され、伊達政宗や最上義光を見張ることとなったのです。

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直江状から関ヶ原へ

秀吉の死後は景勝が【五大老】にも任じられますが、一方で、伊達と最上は重石がとれたように堂々と、五大老の一人である徳川家康へ接近。

上杉の重責は、ますます強まります。

【五大老】の中で家康が突出すると、他の四人は牽制を図ろうとしました。

そして、上杉と徳川の対立も日増しに深刻になってゆき、ついには対戦不可避のところまで突き進んでゆきます。

直江兼続の記した【直江状】が、天下分け目の戦いの口火を切るのです。

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それから結果は皆さんご存知の通り。

関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、上杉家も大減封された上で出羽米沢藩となり、一気に厳しい財政状況へ。

原因を作ったとされる兼続は、江戸期に奸臣と見なされることもあれば、痛快な背き方をした人物とされることもありました。

現在の上杉家は、大河ドラマ『天地人』や様々なゲームにおいて「義を重んじた家」として人気を集めています。

しかし現実には「義」という概念ではなく、存続の危機にすら陥ってたときは、素早い外交交渉が同家を救っていたのでした。

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【参考文献】
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon
日本史史料研究会・白峰旬 『関ヶ原大乱、本当の勝者』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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