天正10年(1582年)3月24日は武田信廉(逍遥軒)の命日です。
武田信虎の子であり、つまりは武田信玄の弟でもあり、“逍遙軒“の号でも知られる武田一門の武将。
フィクションにおいては「信玄の影武者」として描かれてきた特徴があり、戦国ゲームの代表『信長の野望』でも『将星録』までは兄の信玄に顔グラフィックが寄せられて登場していました。
しかし『天下創生』からは兜を取り、どこか憂鬱そうな顔に変化しています。
なぜ武田信廉はそのような変貌を遂げたのか。
なぜ信玄の影武者とされたのか。
その生涯を振り返ってみましょう。

絵・富永商太
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信玄の影武者伝説
信玄に限らず、戦国大名には影武者伝説が付き纏いがちです。
有名なところでは徳川家康でしょう。
天下人となったため毀誉褒貶も絡んで古くから様々な言い伝えがあり、現代においては隆慶一郎氏が『影武者 徳川家康』という小説を発表しています。
『花の慶次』と同様、原哲夫氏の作画で漫画化もされているため、雑誌やコミックで目にされた方も少なくないでしょう。

『影武者 徳川家康』(→amazon)
荒山徹氏もまたこれに似た設定で、『徳川家康』と書いて「トクチョンカガン」と読む怪作を発表しました。
しかし、こと影武者に関して言えば、家康よりはるかに存在感のあるのが武田信玄でしょう。
病に冒され、志半ばのまま戦場で病に倒れてしまった信玄。
三方ヶ原の戦いの大勝利で家康や信長を追い詰めながら、ここぞというシチュエーションで死んでしまう展開が劇的なため、江戸時代以降、様々な憶測から影武者伝説が作られてきました。
死を秘すべしと言い残したというが誠に死んだのであろうか?
実は山本勘助が影武者を量産しまくって、敵を欺こうとしていた! 忍者に解決させよう――。
そんな、あまりに突拍子もない内容が売りの山田風太郎氏『信玄忍法帖』もあります。
そして世界的にも存在を知られているのが、黒澤明氏の名作映画『影武者』でしょう。
『甲陽軍鑑』にある影武者の記録

映画『影武者』(→amazon)
勝新太郎氏が演じるはずだった武田信玄とその影武者を演じるのは仲代達矢氏。
この映画で重要な役割を果たしているのが、本記事の主人公・武田信廉です。
「ずっと兄の影武者を務めさせられ、疲れ果てた」
映画の中ではそう振り返る信廉。
実はこの伝説、全くの無根拠ではなく元となる逸話があります。
『甲陽軍鑑』など複数の書物に残されていて、中身は似たりよったり、まとめると以下のような話となる。
北条氏政が信玄の死を漏れ聞いた際、板部岡江雪斎を甲斐へ派遣した。
そしてまんまと影武者に騙された。
信廉は『武田二十四将図』でも信玄のすぐそばというのが定位置――ゆえに影武者伝説は一層説得力を持ち、そうした状況を反映したため『信長の野望』でも『将星録』までは兄に似た顔グラだったのでしょう。
ではなぜ『天下創世』以降、顔は変化していったのか?
兄の影で不詳なことも多い弟
『信長の野望 天下創生』の以降から、沈鬱で繊細そうな表情となった武田信廉。
なぜ、そんな変化が起きたのか?
というと歴史研究者たちの成果により「武田信廉は文人気質だった」という人物像が明かされたことを反映したのでしょう。
信廉は、兄の武田信玄や武田信繁と父母を同じくするにもかかわらず、実は生年月日も不明。
信虎の三男か四男か、あるいは六男か……という曖昧な存在でした。
幼名は孫六とされ、成人してから信廉、刑部少輔と名乗ります(信連とする記録も)。
武田家にとっても信廉にとっても大きな変化が訪れたのは永禄10年(1567年)――この年、武田信玄と対立していた嫡男の武田義信が亡くなりました。
従来は自刃へ追い込まれたと伝わり、最近では病死という見方が有力の義信。
いずれにせよ彼の死によって重臣の飯富信昌が連座すると、飯富の300騎のうち50騎が信廉へ分け与えられました。

飯富虎昌/wikipediaより引用
そして元亀2年(1571年)、義信の死により急遽武田家の後継となった武田勝頼に替わり、信廉は信濃高遠城主となります。
出家して「逍遥軒信綱」を名乗ったのは、信玄が元亀4年(1573年)に亡くなってから。
葬儀では御一門の一人として棺の前を担ぎました。
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