大河ドラマ『豊臣兄弟』の第16回放送は「宮部継潤の調略」と「比叡山焼き討ち」が主なイベントでした。
しかし、今回の放送には驚きました。
織田信長や豊臣兄弟の生涯を振り返る上で大きなイベントとなる、本願寺や三好三人衆との争いが完全にスルーされていたのです。
せめてナレーションで説明を入れてもいいはずなのに、一言も触れずにいきなり森可成が討たれ、比叡山焼き討ちへと進むのですからさすがに今回は物議を醸しそうなところ。
では一体何が省略されていたのか?
レビューと共に振り返ってみましょう。
兄弟猿ですウキキキキ
「兄猿です、ウキキ!」
「弟猿です、ウキ!」
「ウッキー、ウキキキキー!」
メイクを整え、信長のもとへ出向いた豊臣兄弟が、猿踊りを見せます。
見ているこちらが恥ずかしくなってくる共感性羞恥を刺激され、3年前の「えびすくい」を思い出させられました。
いったい二人は何のためにこんなことをしてんのか?

どうやら妹・お市の方と敵対し、信長が落ち込んでいるだろうと慰めに来たようで、兄弟以外の家臣ものこのこやってきて飲み会が始まります。
まるでフラれた親友を慰める青少年たち。
脚本家氏が描きたいのは戦国乱世のリアルではなく、舞台劇「戦国」を演じる者たちなのかな……。
いずれにせよ、このシーンのために本願寺の参戦がナレーションすらカットされたかと思うと、さすがに驚きを禁じえない、そう感じたのは私だけではないのでは?
宮部継潤の調略と万丸の養子入り
織田家では、浅井長政の守る小谷城の攻略が進められます。
豊臣秀吉に与えられた任務は宮部継潤の調略。
小谷城と横山城の間にある要衝・宮部城を守る武将であり、竹中半兵衛がすでに調略に取り掛かっていました。
そして、瞬時に、とりつく島もなかったことがコント調で描かれます。
生死を賭けた状況で緊張感より優先されるのが“笑い”というのは、秀吉一派なりの“ノリ”というか、よく言えばストレス回避法かもしれませんね。

しかし、です。
実際の調略がまたもやフザけ過ぎと申しましょうか……。
豊臣兄弟が地元の農民に扮して発した「宮部村の百姓でごぜえます」というセリフはどうなんでしょう。
あんな芝居じみた風に言われて「おぉ、そうか」と宮部継潤が納得すると兄弟は思っているのか。
変顔をして別人を装っているから仕方ないのか。
いずれにせよ、豊臣秀長の、あまりにも綺麗な真っ白い歯を見たときは、頭の中に「芸能人は歯が命」という古いCMが浮かんできて、戦国ドラマどころではなくなりました。
とにかく歯が白い。
さすが芸能人の二世は幼い頃からのお手入れも凄いんだろうな……という印象でして……。
最終的に調略の条件として提示されたのが、宮部継潤に「秀吉の身内の子供を養子として差し出す」ことでした。
そうなると対象は限られ、白羽の矢を立てられたのが万丸(よろずまる)でした。
兄弟の姉・とも(日秀尼)の息子で、むろん彼女は大反対。
ここをどう説得するか?が、今回の見どころのようです。
個人的に見どころは「野田・福島の戦い」から「比叡山焼き討ち」に至るまでの怒涛の展開でしょ!と思うのですが、本作はそういう作品として捉えるしかありませんね。
森可成の死と省かれた野田・福島の戦い
比叡山延暦寺で朝倉義景と浅井長政が揃っております。
延暦寺の覚恕上人が信長のことを「成り上がりもの」と小馬鹿にして笑う。
そして宇佐山城の戦いへ。
森可成が「殿がくるまで持ち堪えるのじゃ」と味方を鼓舞しますが、この戦い、浅井朝倉軍3万vs森可成1000(~3000)とも伝わり、可成は最初から死を覚悟した戦いです。
実はこの直前、織田軍の主力は摂津の石山で三好三人衆と戦っており(野田・福島の戦い)、さらにそこへ本願寺までもが宣戦布告してきて、織田軍は追い込まれていました。
確かに『信長公記』などでは、余裕綽々な態度で描かれています。
しかし実際は伊勢でも長島一向一揆が勃発し、信長の弟・織田信興が殺されるなど、非常に厳しい状況だったのです。
「姉川の戦い」に自らは参戦しなかった朝倉義景が急に戦場へ出てきたのも、織田軍が摂津で三好三人衆や本願寺に釘付けにされ、今ならヨユー!と思ったからではないでしょうか。
森可成は、そんな信長に少しでも時間の猶予を稼がせるため、死を覚悟で浅井朝倉軍を寡兵で迎え撃ち、実際に討たれてしまいました。
もしも浅井朝倉軍に宇佐山城を素通りさせると、彼らが摂津へ向かい、織田軍を背後から襲う危険性があったのです。

森可成/wikimedia commons
以降、森家の森長可や森蘭丸が厚遇されるのも、以前からの働きに加え、さらなる忠義が認められたからこそ。
かように「野田・福島の戦い」から「宇佐山城の戦い」に至るまでの経緯と結果には、色々と面白い戦国エッセンスが含まれています。
そしてその後、比叡山にいる浅井朝倉軍と、野田・福島の戦いから離れてやってきた織田軍が対峙したのが「志賀の陣」です。
比叡山にこもる浅井朝倉軍。それを麓で待ち構える織田軍。
両軍は睨み合ったまま、最終的に和睦が成立します。
ドラマの中で信長が「足利義昭にしてやられた!」と激怒しておりましたが、実際は将軍の口利きと、朝倉義景の日和見主義に助けられたわけです。
なお、信長礼賛の『信長公記』では、浅井朝倉軍のほうが助かったことになっています。
しかし状況的に追い込まれていたのは織田軍で間違いないでしょう。
大河ドラマ『麒麟がくる』ではこの辺の描写がなんとも丁寧で、比叡山の覚恕が信長に対して恨みを抱くのは、色々と利権を奪われたからということまで描かれていました。
つまり、比叡山にしても単に「信長が成り上がりものだから気に食わない!」のではなく、「ワシらの資産を奪い取った信長が憎たらしい!」ということです。
比叡山焼き討ちと明智光秀の出世
元亀2年(1571年)9月、織田信長は明智光秀らに比叡山焼き討ちの命令を下しました。
比叡山の僧侶たちは以前から肉や魚を食らい、遊女を山に住まわせるなど、風紀が乱れきっていたことはよく指摘されます。
戦後に明智光秀が手にした志賀エリアは門前町として発展し、その権益も凄まじいものがありました。
琵琶湖と京都をつなぐ要衝でもあり、まさに人集まれば金も集う。
信長が比叡山焼き討ちを実行したのも、そうした背景があったからとされます。
浅井朝倉軍が立てこもったように軍事施設としての一面もあり、岐阜城から京都まで向かう織田軍にとってはどうしても攻略しておかなければならない要衝と言えました。
ドラマでは、明智光秀が非情な覚悟で女子供に手をかける一方、恩情派の豊臣秀吉はひそかに退避させていました。
本堂には火が放たれ、虚ろな表情で佇む光秀。
それを見て、何とも言えない表情の秀吉。
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戦後、光秀は織田信長から功績を称えられ、足利義昭には「おまえは外道か!」と罵られました。
さらには「わしのもとに戻ってまいれ」とまで義昭に言われる光秀ですが、信長に志賀の地を与えられると坂本城を建て、さらに織田軍の中枢へと取り立てられていきます。
光秀は、この時点の織田家で最有力候補の家臣となるのです。
なお、二人のライバルが延暦寺で戦っている間、豊臣秀長は姉のともを調略し、万丸を宮部継潤の養子に出すことに成功しました。
宮澤エマさんの熱演に涙を誘われた方も多かったでしょうか。
「野田・福島の戦い」や本願寺まで省かれたのは信長秀吉ドラマとして痛恨の一撃だと思うのですが、その痛みは彼女の涙で流しておきましょう。
彼女が息子を差し出したことにより、宮部継潤の調略に成功。
比叡山で女子供を逃して死罪を言いつけられていた秀吉は、宮部調略の功績により九死に一生を得るのでした。
実際に比叡山で数千人殺されたのか
比叡山焼き討ちを実行するにあたり、史実の明智光秀は事前に周辺の勢力を調略し、用意周到に事を進めました。
いくら綺麗事で覆っても、作戦の中身自体は凄惨なもの。
光秀ファンとしても心苦しいところかと思います。
その一方で、比叡山を攻撃するまでには、何度も織田軍から通告し、逃げようと思えばその時間があったともされるだけでなく、所領を安堵された者もいたとされます。
あるいは現地の発掘調査から、山全体を焼かれた痕跡まではなく、数千の犠牲者という割に当時のものと断定される人骨も見つかっていません。
『信長公記』の誇張が考えられるわけです。
信長に逆らったら大変なことになる――そう喧伝するために被害者を誇張したというわけですね。
なお、宮部継潤の調略について、なぜあそこまで大きく描かれたのか?という疑問をお持ちだった方もいらっしゃるかもしれません。

宮部継潤が万丸を養子にしたのは、当人にとっては大成功でした。
というのも万丸は後に豊臣秀次として関白となり、宮部自身も秀吉に重用されるのです。
詳細は二人の別記事「宮部継潤の生涯」あるいは「豊臣秀次の生涯」をご覧ください。
参考文献
高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』(2019年6月 戎光祥出版)
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』(2017年2月 中央公論新社)
藤井讓治『天皇と天下人』(2011年11月 講談社)
池上裕子『織田信長』(1996年1月 吉川弘文館)
堀新『信長公記を読む』(2011年2月 吉川弘文館)
今谷明『戦国時代の貴族―『言継卿記』が描く京都』(1980年1月 大学教育社/2016年 講談社学術文庫)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(2014年11月 洋泉社)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
洋泉社編集部編『明智光秀 歴史REAL』(2019年8月 洋泉社)
