大河ドラマ『豊臣兄弟』で描かれた宇佐山城の戦いを覚えておられるだろうか。
織田家の森可成に対して浅井朝倉軍が急襲した、あの一戦。
劇中では、突然、大軍がやってきて森可成が討ち取られたかのように描かれ、その後の織田家と延暦寺の和睦はまるで“足利義昭の悪だくみ”のようだったが、実際はそう単純な話でもない。
史実の織田信長は、宇佐山城で森可成が戦っているとき、身動きできなかった。
摂津で三好三人衆や本願寺との戦闘に釘付けにされ、助けたくても助けられなかったのだ。
一体それはどんな状況だったのか?
なぜ森可成は浅井朝倉の大軍に立ち向かい、討死したのか?

元亀元年(1570年)から元亀二年(1571年)にかけて、森可成が死に至った状況を振り返ってみよう。
三好三人衆の挙兵で信長は摂津へ釘付けに
元亀元年(1570年)6月「姉川の戦い」で北近江の浅井朝倉連合軍に勝利した織田信長。
しかし反信長勢力は依然として完全には鎮圧されてはいなかった。
まず最初に動いたのは三好三人衆である。

三好三人衆・岩成友通の浮世絵(落合芳幾作)/wikimedia commons
同年7月、阿波国を拠点としていた彼らは、四国から海を渡って摂津国へと上陸。
大坂の野田城ならびに福島城(現在の大阪市福島区周辺)を改修して反織田家の拠点とすると、打倒信長および足利義昭の排除を掲げて蜂起した。
一報を知った信長は即座に動き、元亀元年(1570年)8月20日、岐阜城を出陣する。
上洛を果たした織田軍は、同月26日には天王寺に本陣を構え、足利義昭も中島城へと入り、野田・福島両城への包囲網を構築。
織田軍・幕府軍のほか、紀伊国の根来衆や雑賀衆、湯川衆など2万とも伝わる援軍まで加わり、討伐軍は合計で数万規模の大軍となった。
9月に入ると、信長は野田・福島城へ猛攻を繰り返し、三好三人衆の敗北は時間の問題かに見えた。
しかし、事態は予想しなかった方向へ急転する。
石山本願寺の参戦で始まった十年戦争
元亀元年(1570年)9月12日、織田信長と足利義昭が野田城・福島城へ総攻撃を仕掛けていると、その日の夜、背後に位置する大坂(石山)本願寺が突如として織田軍へ襲いかかった。
一向宗門徒らが織田軍の陣へ夜襲を仕掛けたのである。
なぜ本願寺はそのような行動に出たのか。
一説には、織田信長が本願寺に対して5000貫もの矢銭(軍事費のための税金)を徴収したことだと考えられてきた。
※堺は2万貫の矢銭を支払っている
しかし、このときは本願寺側も素直に応じ、信長から安堵状が出され、両者の関係が決裂したわけではない。
ならばなぜ?というと、明確な一件はないものの、畿内を制圧し、三好三人衆を攻撃する織田軍に対し、「いずれは本願寺も支配下に置かれる」という危機感だったとも指摘される。
そうした危機感を背景に、顕如は各地の門徒へ檄文を飛ばした。
「信長が本願寺を破却しようとしている!」

顕如/wikimedia commons
かくして各地で一向一揆を蜂起させた顕如。
本願寺軍は、野田・福島城に籠る三好三人衆と呼応し、淀川の堤防を切って織田軍の陣を水攻めにするなど、地の利を活かして激しく抵抗した。
信長と本願寺との間で以後10年にわたって続く「石山合戦」の始まりである。
そのため織田軍は、摂津で完全に釘付けにされてしまった。
浅井・朝倉軍が湖西から京都を狙う
大軍を率いた織田信長が摂津で身動きが取りづらい状況に追い込まれた――。
そんな情報は、本願寺からの連携などによって、北近江の浅井長政や越前の朝倉義景にもすぐさま伝えられたのだろう。
浅井朝倉軍はこの機に乗じて織田軍の背後を突き、京都を奪取すべく軍事行動を開始。
姉川の戦いでは前線に出なかった朝倉義景もこのときは自ら出陣し、浅井長政と合流して琵琶湖の西岸(湖西ルート)を南下した。

浅井長政と朝倉義景/wikipediaより引用
合計3万とも伝わる浅井朝倉軍。
もしもそのまま京都から摂津まで進軍したら、織田軍は三好三人衆や本願寺との間で挟み撃ちにされてしまう。
そうなれば織田家存続の重大な危機。
そこで浅井朝倉軍の南下を阻むことが出来たのは、近江国滋賀郡に位置する宇佐山城(滋賀県大津市)だった。
宇佐山城は、京都と近江を結ぶ交通の要衝に位置しており、城将を務めていたのは信長の信任厚い重臣・森可成である。
可成のもとには、信長の弟・織田信治や、近江の国衆である青地茂綱らが配置されていたが、城兵の数は1000から3000ともされ、浅井朝倉軍に比べて圧倒的に少数であった。
森可成はなぜ城を出て戦ったのか
3万ともされる大軍で、湖西から京都方面へ迫る浅井朝倉軍。
むろん森可成も黙って見過ごすわけにはいかない。
もしも宇佐山城に籠もり、無傷で浅井朝倉軍を素通りさせてしまったら、その後、摂津にいる織田軍が窮地に立たされる。
そこで可成が下した判断が“野戦”であった。
単に宇佐山城で籠城するのではなく、街道を封鎖して敵軍の進路に立ちはだかることにしたのだ。
元亀元年(1570年)9月16日、浅井朝倉軍が近江坂本(滋賀県大津市)エリアまでやってきた。
すかさず可成は宇佐山城から討って出て交通路を遮断すると、そこへ浅井朝倉軍が襲いかかる。
しかし、寡兵の森軍は踏ん張り、一進一退の展開となる。
攻めあぐねる3万もの浅井朝倉軍は、元亀元年(1570年)9月19日、森可成の陣所へ向けて総攻撃を開始した。
森可成や織田信治らは再び奮戦するも、最終的には力尽き、森可成をはじめ、織田信治、青地茂綱ら主だった将兵は激戦の中で討死を遂げた。

森可成を描いた浮世絵(落合芳幾)/wikimedia commons
大将を失った織田軍は、それでも残された将兵たちが宇佐山城に籠城し、浅井朝倉軍からの猛攻を頑強に防ぎ続ける。
結果、宇佐山城は陥落せず――。
浅井朝倉軍が背後の脅威を恐れて京都への進軍に躊躇していると、森可成討死の急報が信長のもとへ届けられた。
森可成らの働きが、織田軍が態勢を立て直すための貴重な数日間を稼ぎ出したのである。
可成の討死が稼いだ時間
森可成の討死は、単なる敗北ではない。
宇佐山城で浅井・朝倉軍を足止めしたことで、織田信長は摂津からの撤退と体勢立て直しの時間を得ることができた。
この数日間がなければ、織田軍は挟撃され、壊滅的な打撃を受けていた可能性もある。
つまり可成の討死は、信長を救うための、時間を稼ぐ戦いだった。

絵・富永商太
その後の展開と信長の決断
宇佐山城の戦い後、戦局は志賀の陣へと発展し、信長は和睦という決断によって包囲網をいったん乗り切ることになる。
なお、この一連の戦いは「第一次信長包囲網」と呼ばれる。
森可成の討死も含め、信長が四方を敵に囲まれた絶体絶命の状況をどう乗り切ったのか。
なぜ滅びなかったのか――その全体像は以下の記事で詳しく解説している。
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第一次信長包囲網とは?四方を敵に囲まれた信長がそれでも生き残れた理由
続きを見る
なお、森可成を追い込んだ浅井長政が大河ドラマ『豊臣兄弟』で話題になっているが、史実での最期については別記事「浅井 長政の最期は史実ではどうだった?」をご覧いただきたい。
参考文献
池上裕子『織田信長』(2012年12月 吉川弘文館)
天野忠幸『三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争』(2016年2月 戎光祥出版)
藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(2003年1月 講談社)
堀新 編『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(2014年10月 毎日新聞社)
日本史史料研究会 監修/渡邊大門 編『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年8月 吉川弘文館)
岡田正人 編『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)

