四方をすべて敵に囲まれた戦国大名はどうなるか――。
常識的に考えれば滅亡しかないが、浅井、朝倉、武田、上杉、毛利、本願寺など、名だたる強敵たちに都合三度も囲まれながら、そのすべてを撃破してきた者がいる。
織田信長だ。
後に天下を制したことから、圧倒的戦力を有していたとも思われがちな織田軍。
しかし実際は「信長包囲網」という囲い込み戦略を三度も仕掛けられ、その都度、絶体絶命のピンチを潜り抜けてきたのである。
それは一体どのようなものだったのか。
本記事で、まずは「第一次信長包囲網」から見ていこう。

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
第一次信長包囲網とは?
第一次信長包囲網で織田家を囲んだ敵対勢力はどのような勢力だったのか。
最初に確認しておこう。
・浅井長政
・朝倉義景
・三好三人衆
・阿波三好家(三好長治・篠原長房)
・本願寺(顕如)
・長島一向一揆(伊勢)
・比叡山延暦寺
・六角義賢・義治父子(南近江)
北陸から畿内へかけて南は伊勢まで。
信長が支配する畿内・近江・美濃・尾張・伊勢に立ちはだかるような位置取りで敵対勢力は分布している。

いずれも単独では織田家に勝てないが、同時に蜂起すれば追い込むことができる、そんな勢力だった。
織田家としても戦力に限りはあり、一斉に迎撃するのは至難の業。
では実際の第一次信長包囲網は、どうやって形成され、信長はどう対抗していったのか。
時系列に沿って見てみよう。
浅井の離反と金ヶ崎の退き口
第一次信長包囲網の契機となったのは、信長の義弟・浅井長政の裏切りだった。
元亀元年(1570年)4月、越前の朝倉討伐に取り掛かっていた織田軍を、突如、背後から急襲しようとした浅井軍。
なぜ長政は信長を裏切ったのか。

浅井長政/wikimedia commons
「浅井と朝倉は三代に渡る盟友であり、信長が約束を破って朝倉攻めを強行したことに対して、長政が義憤を感じ離反した」などと言われるが、後年の書物であり信憑性は薄い。
現実的に見れば、浅井は朝倉と従属関係に近かったとも言える。
戦国大名というより有力な国衆であり、その証拠の一つとして朝倉の本拠地・一乗谷に浅井家の邸が構えられていた。浅井が朝倉とは同等ではなく、家臣扱いされていたのでは?と思わせるものだ。
一方で信長は、長政の所領を安堵し、妹を嫁がせていたため安心しきっていたようだ。
だからこそ浅井裏切りの一報が届いたとき、『信長公記』では、それをなかなか信じることのできなかった信長の姿が描かれている。
結局、信長ならびに織田軍は退却を選んだ。
このとき殿(しんがり)を務めたのが羽柴秀吉であり、命を賭けた撤退戦は「金ヶ崎の退き口」としてよく知られ、秀吉大出世のキッカケともなった。
秀吉の他に明智光秀だけでなく、3000もの兵を連れていた池田勝正も殿を引き受けたとされる。
いずれにせよ、この裏切りが「第一次信長包囲網」の始まりとなった。
姉川の戦いで決着はつかず
命からがら京都へ逃げのび、岐阜城へ戻った信長は、即座に浅井朝倉との対決を決断した。
元亀元年(1570年)6月、織田軍は浅井の本拠・小谷城を包囲し、同年6月28日に「姉川の戦い」で徳川軍と共に浅井朝倉軍を撃破する。
しかし、この一戦で決着がつくには至らず、敵対勢力はさらに増えていく。
以前から幾度も戦っていた三好三人衆が阿波三好家と共に同年7月に摂津へ入り、野田城と福島城を改修。
織田家に対して蜂起すると、信長は岐阜から京都を経由して摂津へ出陣した。
いわゆる「野田・福島の戦い」である。
織田軍に取り囲まれ、身動きが取れなくなった三好三人衆は、9月になって和睦を申し入れる。
彼らと幾度も合戦を繰り返していた信長は、三好勢の狙いを時間稼ぎと見て、その申し出を拒否した。
しかし、そこで予期せぬ事態に陥ってしまう。
野田・福島の戦いのすぐ近隣・石山に勢力を築いていた本願寺の顕如が『いずれは自分たちも攻められる』と信長に危機感を抱き、ついに挙兵したのだ。

顕如/wikimedia commons
森可成が討死した宇佐山城の戦い
そんな中、摂津にいた信長へ驚きの一報が届けられる。
信長の重臣・森可成と浅井朝倉軍の間で「宇佐山城の戦い」が勃発し、可成が討死したというのだ。
琵琶湖の西岸を下ってくる浅井朝倉軍3万に対し、わずか1000~3000の兵だったとされる森軍は、織田家のため少しでも時間を稼ごうとして城から打って出たという。

森可成/wikimedia commons
しかも森可成が討死してから残された家臣たちは宇佐山城に籠り、浅井朝倉軍の猛攻から城を守り抜いた。
そんな報告を聞いて、摂津からの引き上げを決めた信長。
すぐさま近江へ向かうと、その動きが予想外に早かったせいか、今度は浅井朝倉軍が比叡山延暦寺へ逃げ込んだのだった。
志賀の陣の間に長島一向一揆
元亀元年(1570年)9月、比叡山延暦寺に籠り始めた浅井長政と朝倉義景。
山の麓に陣を構えた信長は「一戦して決着をつけよう」と呼びかけ、比叡山にも邪魔をしないことなどを求める使者を送った。
しかし、いずれも返事はなく、織田軍は比叡山を包囲しながら持久戦へと進んでいく。
俗に「志賀の陣」と呼ばれるこの対陣。
ジリジリと日数だけが過ぎていくかと思いきや、元亀元年(1570年)11月下旬、新たな展開を迎える。
伊勢で長島一向一揆が勃発し、小木江城(愛西市)にいた信長の実弟・織田信興を攻め、自害に追い込んだのだ。
和睦へ
歯噛みをするしかない信長に対し、他にも以下のような者たちが包囲網に参戦していた。
信長に観音寺城を追われ、ゲリラ活動を行っていた六角義賢。
一説には本願寺の参戦を顕如に決意させたという阿波三好家の篠原長房。
池田勝正を追放して同家を乗っ取ったとされる荒木村重。
本願寺や三好家に雇われた雑賀衆や根来衆。
かくして四面楚歌へと追い込まれた信長は、このとき最終的にどんな手を打ったのか?

織田信長/wikimedia commons
最終的に信長が頼ったのは、朝廷と将軍による政治的な調停だった。
足利義昭と関白・二条晴良に働きかけ、浅井・朝倉・延暦寺との和平交渉を進め、最終的には正親町天皇の綸旨までも動かし、双方から人質が出されて戦は終結したのだ。
信長としても苦渋の選択ではあったろうが、最終的に元亀元年(1570年)12月中旬まで対陣は続き、何ら成果を得られないまま限界を迎えた。
しかし、この和睦で反信長勢力が消えたわけではない。やがて武田信玄の西上などを契機に、信長は再び包囲網に直面する。
第二次信長包囲網は、後日、別記事で詳しく紹介する。
参考文献
池上裕子『織田信長』(2012年12月 吉川弘文館)
天野忠幸『三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争』(2016年2月 戎光祥出版)
神田千里『顕如:仏法再興の志を励まれ候べく候』(2007年10月 ミネルヴァ書房)
日本史史料研究会監修/渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年8月 吉川弘文館)
堀新編『信長徹底解読:ここまでわかった本当の姿』(2014年10月 毎日新聞出版)
藤井讓治『天下人の時代』(2011年5月 吉川弘文館)
金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』(2017年3月 河出書房新社)
岡田正人編『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
