斎藤利治

斎藤家

道三の末子・斎藤利治|信長の命で上杉軍を相手に「月岡野の戦い」で快勝

豊臣秀吉が戦列を離れ、その後、柴田勝家上杉謙信と激突し、織田軍が惨敗した――手取川の戦い

実は、この戦いには、興味深い後日談があります。

天正六年(1578年)10月4日、斎藤利治と上杉家による【月岡野の戦い】です。

いったい何が興味深いのか?

当時を振り返ってみましょう。

 


やる気マンマンの織田 vs 御館の乱の上杉

手取川の戦いが起きたのは天正5年(1577年)9月のこと。

織田家の中でも猛将として知られる柴田勝家軍が完膚なきまで上杉謙信にボコられ、

柴田勝家と上杉謙信の肖像画

鬼柴田と恐れられた柴田勝家(左)も軍神・上杉謙信には赤子のごとく?/wikipediaより引用

あらためてその強さに震えた織田軍ですが、翌年3月になって当の謙信が急逝。

そのため上杉家内では、養子2名による壮絶な家督争いが生じました。

御館の乱】です。

家督を争ったのは謙信姉の息子・上杉景勝(with直江兼続)と、北条家から養子にきていた上杉景虎

それぞれに派閥の家臣がつき、真っ二つに割れていたのです。

敵から見れば、こんな付け込むチャンスはありません。

てなわけで、まず信長は、謙信時代に追い出されて織田家に来ていた神保長住(じんぼうながずみ)という人物に先行させます。

「おい、お前の領地取り返せそうだからいっちょ働いてこい」(超訳)

とはいえ長住には満足な兵数もいませんから、いきなりそんな真似はできません。

地元の越中(現・富山県)に元家臣や親族がおり、そうした人々に呼びかけて織田家へ帰順するように説いてまわります。

一時は上杉家についていた人々も一部これに応じ、長住は密かに越中を掌握していきました。

戦そのものも面白いですけど、こういう水面下の動きもワクワクしますね。

 


斎藤利治はマムシの息子にして濃姫の弟

しかし、これを良しとしない人も当然います。

血筋的には上杉家のほうが上と見られていましたから、

「得体の知れない家に頭下げるなんてたまるか!」

というわけです。

数回に渡って説得を試みてもうまくいかず、ついに信長からは「言っても聞かない奴は倒すしかないな!やれ!」(超訳)という命令が下されます。

先鋒を任されたのは斎藤利治(としはる)。

この人は濃姫(帰蝶)の末の弟、つまり道三の末息子です。信長にとっては義弟ですね。

斎藤道三の肖像画

斎藤道三/wikipediaより引用

”義弟”というと「浅井長政」という信長苦渋の歴史を思い出しますが、利治は「甥っ子の斎藤龍興があまりに痛いやつだったので織田家に帰順した」という慧眼な人です。

信長の事績を著した『信長公記』では「斎藤新五」という名前で登場します。本記事ではこのまま斎藤利治で進めましょう。

織田家には忠実に仕え、嫡男・織田信忠の側近になっていたくらいですから、覚えもめでたかった利治。

手取川の戦いにも参加していたとされますので、対上杉戦であれば個人的なリベンジでもあったんですね。

進軍した斎藤利治は、まず越中南部の津毛城(つげじょう)を攻めようとしました。

しかし、上杉家自体が内乱の最中であり、とても兵卒まで統制されているとはいえない状態。

戦が始まる前から「織田軍が来るぞおおおおお! 皆逃げろおおおおおお!」(※イメージです)と、てんやわんやの状態のため城から逃げ出す兵が大多数で、戦にならなかったそうです( ゚д゚)ポカーン

利治はさぞ拍子抜けしたことでしょう。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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