斎藤利治

斎藤家

道三の末子・斎藤利治|信長の命で上杉軍を相手に「月岡野の戦い」で快勝

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
斎藤利治
をクリックお願いします。

 


足場の悪いぬかるみで大勝利

穏便に拠点を作ることができた利治は、気を取り直してさらに進軍。

次の今泉城には謙信の側近として仕えていた人物もおり、一筋縄ではいかないと判断した彼は一計を講じます。

城攻めを中止すると見せかけて、上杉軍を城外へ誘い出したのです。

そして地形の複雑な月岡野までひきつけてから一斉に転進し、実に360人を討ち取るという大勝利を収めました。

これが【月岡野の戦い】です。

月岡野の位置は、現在の富山市上栄あたりといわれており、今も大小さまざまな川が流れているので、おそらく当時から足場の悪いところだったのでしょう。

地元でもないのにそこまで把握してた利治がパネェっす!

この働きにはもちろん信長も信忠もホクホク顔で、感状(主君からのお褒めの手紙・領地について書かれていることも)をあげています。

織田信長(左)と織田信忠の肖像画

織田信長(左)と織田信忠/wikipediaより引用

特に信忠は、自分の家臣が大功を挙げたことがよほど嬉しかったらしく、

「寒い中ご苦労様」

「今後も良い知らせを待っている」

と労いの言葉を送っており、気遣いや喜びようが窺えます。かわいいな。

 


いいところで荒木村重の裏切りが……

謙信亡き後とはいえ、上杉家を合戦で破り、各地の大名は「織田家ってヤバくね?」と考えるようになります。

特に越中では織田家についた人が多く、このまま一気に上杉家を破れるかに見えました。

しかし、本格的に動き出す前に冬が深まり始め、さらには上方で荒木村重が裏切ったためその対処に当たらねばならず、北陸越後方面の作戦は一時中止となります。

その間に上杉家では、御館の乱を片付けた上杉景勝直江兼続らが態勢を立て直し、次は、リベンジを狙う柴田勝家とぶつかります。

上杉景勝と直江兼続の肖像画

上杉景勝と直江兼続/wikipediaより引用

上杉家と言えば謙信。

そのライバルと言えば武田信玄ですから、どうしても

【上杉家vs武田家】

という構図を思い浮かべてしまいますが、実は上杉家vs織田家という闘いもドラマに満ち溢れていますね。

手取川の戦いについては以下の関連記事から併せてご覧ください。

 


追記(2025年10月2日)

10月4日の合戦に合わせて本文に写真を入れ、Googleマップを追加しました。

◆斎藤利治の墓がある「龍福寺」

▼更新履歴
・2025年10月4日:本文に写真を入れGoogleマップを追加

あわせて読みたい関連記事

柴田勝家と上杉謙信の肖像画
織田軍と上杉軍が正面から激突!手取川の戦いで謙信はどこまで勝家に大勝した?

続きを見る

斎藤道三
美濃の戦国大名・斎藤道三~蝮と呼ばれた謀将が下剋上を突き進む 生涯63年

続きを見る

柴田勝家
柴田勝家の生涯|織田家を支えた猛将「鬼柴田」はなぜ秀吉に敗れたか

続きを見る

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

織田信忠
織田信忠の生涯|なぜ信長の嫡男は本能寺の変で自害せざるを得なかったのか

続きを見る

直江兼続の肖像画
戦国武将・直江兼続の真価は「義と愛」に非ず~史実も十分に魅力的な60年の生涯

続きを見る


参考文献

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-斎藤家
-,