というのは一般的に知られていても、
を即答できるのは歴史ファンと受験生の皆さまぐらい……と考えていましたが、最近は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の影響で、頼朝の後継者はすぐ頭に浮かんできそうですね(答えは記事末に)。
しかし地方の大名となれば一気に難易度は高まり、それは戦国時代で屈指の人気武将にも言えることではないでしょうか。
万治元年(1658年)7月12日は、仙台藩の二代藩主・伊達忠宗が亡くなった日です。
この方のお父様が誰なのか? もうお察しでございましょうか。
そうです。
父ちゃんは戦国一のネタ武将こと伊達政宗です。
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いろいろ重なって影の薄い伊達忠宗
世に、マイナー二代目は多々あれど、伊達忠宗はトップクラスに不遇な状況です。
というのも……。
・キャラの濃すぎるトーチャン(伊達政宗)
・世の中が平和になった直後の藩主継承
・息子(伊達綱宗)のせいで次代にお家騒動発生→改易をギリ免れる
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かように不遇な案件が前後に重なったため、より一層影が薄くなってしまいました。
しかし、そこは名門伊達家の当主を務めた人物です。もちろん仕事はきっちりやっています。
忠宗は、慶長四年12月に京都で生まれました。
新暦に直すと1600年1月ですから、関ヶ原の戦いに向けて世の中が不穏な情勢になっていた頃です。
正室・愛姫の子供だったので、次男ながら早いうちから跡継ぎ候補とみなされておりました。
7歳のときには徳川家康の五女・市姫と婚約しているくらいですしね。
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ただし、市姫は3歳で亡くなってしまい、家康の外孫で池田輝政の娘・振姫が、秀忠の養女として忠宗に嫁ぐことになります。
このとき忠宗17歳、振姫10歳。
夫婦仲についてのエピソードは特にありませんが、二男一女をもうけているので、悪くはなかったと思われます。
残念ながら、三人とも夭折してしまっていますが……。
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生前に家督継承していない 数少ない例外
忠宗は若い頃から慎重でおとなしい人物だったらしく、家督を譲られる前の逸話もほとんどありません。
トーチャンがいろいろやって(やらかして?)いたので、陰が薄くなるのも仕方のないことでしょう。
気の弱い人なら胃痛→胃潰瘍→胃がんになってもおかしくなさそうですが、そこは血筋か体質か、あるいはその両方のおかげでなんとかなった……と想像します。
ほとんどの大名が父の生前に家督を譲られている中、忠宗は数少ない例外でした。
実は伊達政宗は、寛永十三年(1636年)に亡くなるまで、家督を譲っていなかったのです。
「まだまだ死んでたまるか!」
そんな気概だったのか、他に何か考えていたのか、よくわかりません。
異母兄の伊達秀宗には、父・政宗とよく似た気概の持ち主だろうと思わせる逸話があるのに対し、忠宗にはそういうものがないあたり、母・愛姫に似ていたのかもしれませんね。
政宗にとっては頼りなく見えたのでしょうか。
しかし、秀宗を宇和島へ送り出してまで長幼の順に家督を譲ると示したのに、「なんとなく頼りない」というだけで忠宗を廃嫡するのも筋が通りませんし、面子に関わります。
その辺が絡まって踏み切れなかった……とかですかね。
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家光が見舞いにきて「伊達家は潰さないよ」
実際には、忠宗は父が寝込んでから見舞い客などを丁寧に応接していたようなので、外から見れば「落ち着いた跡継ぎ」に見えていたと思われます。
三代将軍・徳川家光が政宗死去の3日前(しかも早朝)に見舞いに来たときも、そつなく応じていました。
家光は念押しとして、帰り間際に「もしこのまま政宗が亡くなっても、伊達家を取り潰したりはしないから安心せよ」といった感じのことを忠宗に言ったそうです。
忠宗は家光の四歳上で同世代です。
仙台藩ほどの大藩かつ名家を取り潰すと後処理が面倒ですし、家光の判断は打倒だったでしょうね。
こうして無事に父の葬儀と家督相続を済ませ、忠宗は同年8月に初めて仙台へお国入りすると、さっそく藩上層部の入れ替えや制度変更などの改革を行っています。
家督継承前からいろいろと考えていたのかもしれませんね。
政宗から言いつけられていた部分や、アドバイスを貰ったりしていた部分もありそうです。
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