北条氏政

北条氏政/wikipediaより引用

北条家

北条氏政が暗愚だから小田原は陥落した? 信玄や謙信と戦った名将の生涯53年

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外交で存在感を発揮するも秀吉に敗れ

甲信越のドタバタで徳川家康と同盟を結んだ北条氏政

その家康が、織田政権後継者の座を巡って羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立を深めていく時期に入ると、氏政は出陣を自重するようになります。

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しかし、依然として外交面を主導する役割を担っていたほか、古河公方足利氏が断絶したことによって彼らが領有していた諸地域の支配を行っていました。

その後、北条氏と秀吉がどのように対立していったか。

家康があっせんした秀吉従属への勧めを北条氏としては受け入れたものの、氏政はこれに強い拒否感を抱きました。

「この決定は了承できない!もう政務など知ったことか!」と実質的にも政務を放棄する形で隠居し、家中の分裂を招いてしまうのです。

しかし、天正17年(1589年)には冷静になったのか。

政務に復帰し、秀吉が命じた上洛の指示を受け入れる姿勢を表明しました。

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氏政としては折れた形ですが、自身が上洛すれば最後であり、身柄の拘束や国替えの心配をした氏直が上洛を引き延ばしにかかります。しかし……。

 

難攻不落の小田原城ついに陥落

時間稼ぎをするような、北条氏直の姿勢が秀吉を激怒させてしまいました。

小田原攻め(小田原征伐)を決断したのです。

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かつて謙信や信玄でさえ落とせなかった難攻不落の小田原城。

当初は豊臣軍を迎えうつ気まんまんの北条氏でしたが、圧倒的な兵力差の前になすすべはありません。

籠城は、城以外の外部勢力から援軍を得られないと勝利は非常に厳しく、このときは諸侯・諸国からの味方はほとんど期待できない状況です。

北条方の城は次々に落とされ、ときに開城を余儀なくされ、戦を主導した北条の権力者たちは降っていきます。そして……。

小田原城もついに陥落しました。

第一に責任を問われたのは、おそらく当主の北条氏直でしょう。

しかし氏直は、開城の際に「自分の命と引き換えに家臣ら全員の助命を申し出たこと」で秀吉の心をつかみ、高野山追放で済み、処刑を免れています。

ただし、秀吉の立場も決してお気楽ではありません。

自分に逆らった者たちを見せしめに処刑しないと、いつまたドコかで反乱が起きないとも限らない。

そこで氏直の代わりに処刑対象として浮上したのが、北条氏政・北条氏照兄弟と大道寺政繁、松田憲秀といった重臣たちです。

この中でも氏政は家康によって助命が嘆願されており、彼の家臣である井伊直政は「氏政の助命は実現しそうだ」と考えているほど微妙な判断となったようです。

しかし、結果的に秀吉の許しを得るには至らず、切腹を命じられました。

享年53。

 

氏政はなぜ秀吉に従わなかったのか

晩年における北条氏政の「反秀吉」的な思想は誰の目にも明らか。

古来より「なぜ氏政は秀吉への従属を拒んだのか」という問題は議論されてきました。

まず一般的な解釈として挙げられてきたのが【氏政無能説】です。

情勢をうまく判断できない上に、プライドばかりが高くてダメな奴――確かに晩年における彼の振る舞いは秀吉を軽んじているように見え、時流を読み切れていなかったと言われてしまうのはやむを得ないでしょう。

しかし、秀吉と対立したこの時期だけを切り出して「氏政はとにかく無能」という判断を下してしまうのは早計に思えます。

上記においても、彼が謙信や信玄を代表とする戦国関東の猛者たちに対して綱渡りのような軍事・外交を展開してきましたし、氏康の悲願であった関宿城を攻め落としたのも事実。

加えて信長の圧倒的な戦力を即座に見抜いて従属したことも評価に値しますし、その際の鮮やかな対応を考えれば、とても凡愚の将とは思えません。

また、氏政の無能ぶりを象徴するとされる「汁かけ飯」の逸話ですが……。

【汁かけ飯の逸話】

氏政が米に汁を二度かけた際、それを見た氏康が「一度でかけるべき汁の量も図れないとは……。北条は私の代で終わりかもしれない」という感想を漏らしたというエピソード。

「氏政が北条氏を滅ぼした暗君である」という風潮が生まれた後年になって創作されたものと考えられており、やはり彼のすべてを否定する判断材料としては弱いでしょう。

他にも「反秀吉」となった理由は色々と提示されています。

・東国武士団特有の独立的思考

・秀吉が初めから北条氏を許す気はなかった

・有力大名が中央政権と対立するのは当然で、徹底抗戦してしまったことこそが問題

いずれにせよ「なぜ氏政が秀吉を拒んだか」という疑問について、現状、発見されている史料から氏政の真意を確定させることは不可能です。

本能寺の変山崎の戦い小牧・長久手の戦いなど。

当時は誰にも想像し得ない突発的事象が頻発しました。

織田家中ですら幾人もの武将が滅亡へ追いやられていて、非常に難しい舵取りが要求される中、結果的に北条氏も滅亡への道を歩んでしまった。

それでも悪く言われてしまう北条氏政に同情の念を抱かずにいられません。

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文:とーじん

【参考文献】
『国史大辞典』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
黒田基樹『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon
黒田基樹『戦国北条五代(星海社)』(→amazon

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