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【北条氏政】
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御館の乱で周辺諸国との関係ガラリ一変
北条氏政が同盟の縁を利用して出兵を要請したはずの武田勝頼が、8月半ばに独断で上杉景勝と和議を交わし、月末に甲斐へとそそくさ帰国してしまったのです。
勝頼の急な変心は、景勝方から提示された多額の資金・領土に目がくらんだともいわれています。
が、氏政や景虎を裏切ったというわけではありません。
勝頼としては「景勝と氏政のどちらとも仲良くしていたい」と考えており、北条氏との同盟を破棄する意思はなかったようです。
実際、不調に終わったものの勝頼は景虎と景勝の和睦をあっせんしており、いわば「日和見」に近い戦略を採用する運びとなりました。
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しかし、上杉景虎&北条氏政にしてみれば、味方が突如として中立を表明した形となってしまい、景虎方の劣勢が決定的なものになったと考えられています。
さらに、冬季に突入したことで、北条勢は「雪」の影響によって退路が断たれるリスクが懸念されるようになり、攻勢が大きく鈍ってしまいました…。
この機を逃さなかった景勝は翌年になると形勢を逆転。
景虎方の城を落としていき、3月には景虎が自害して御館の乱は景勝の勝利に終わります。
氏政としても、弟の危機を救えなかった以上に上杉氏との関係性を大きく後退させる手痛い敗北であったことでしょう。
加えて、御館の乱によって景虎が滅んだことにより、先の越相同盟で上杉へ譲った上野地域の領有権が北条氏に帰属すると主張したため、【この場所を景勝から譲られた勝頼】との間に領有権をめぐる不和が生じてしまいます。
結果として勝頼は氏政に対して公然と敵対するようになり、かねてより反北条の急先鋒であった佐竹氏と結んで攻撃を加えてくるようになりました。
一方の氏政も徳川家康と盟約を交わしてこれに対抗し、両家は遠交近攻策によって本格的な抗争へと突入していきます。
以上の経緯から、上杉家中に甚大な影響を及ぼした御館の乱という騒動は、彼らだけにとどまらず周辺の諸勢力にとっても非常に大きな出来事であったことがわかるでしょう。
信長に従属して家督を息子・氏直に譲る
勝頼との抗争はやや劣勢に進行していき、北条氏政は対抗策を練る必要に駆られました。
そこで彼が選択したのは協力者である家康を通じて「天下人」織田信長へ接近することであり、何度も信長のもとへ使者を遣わします。
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しかも氏政は同盟を申し出たわけではありません。
「あなたに従うから、共に武田と戦いましょう」と信長への従属を願い出るものであり、従来語られてきた「プライドの高さから北条家を滅亡に追い込んだ」という氏政のイメージからはかけ離れています。
必要とあらば低姿勢な振る舞いをすることもできる柔軟さを備えていたのですね。
こうした氏政の申し出に対し、織田信長も承認。
氏政は、織田との同盟関係を第一に考え、信長の娘を正室とすることが決まっていた嫡男の北条氏直に家督を譲りました。
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信長の娘婿をすみやかに当主とすることで、早急な関係性の構築を目指したのでしょう。
以上のように天正7年(1579年)に家督を譲った氏政でしたが、急な交代劇であり、しばらくは政治・軍事を主導しました。
かつて父・氏康に家督を譲られたときと同様の関係性が、今度は自身と息子・氏直との間でも構築され、氏政はこの後も「御隠居様」と称されて一定の権力を維持していきます。
天正9年(1581年)には武田氏の衰退が決定的なものとなり、翌天正10年(1582年)には瞬く間の電撃戦【甲州征伐】によって武田は滅亡。
織田に協力した氏政は、かねてより手を焼いてきた武田に対し、これほどまでに圧倒的な勝利を収めた織田家の恐ろしさを味方ながらに痛感したことでしょう。
しかし、です。
このタイミングで、日本を揺るがす一大事件が勃発します。
【本能寺の変】です。
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天正10年(1582年)6月2日未明。
近畿・東海エリアを中心に、圧倒的勢力であった織田家の実質的当主・織田信長と、その嫡男・織田信忠が明智光秀に討たれました。
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こうなると織田家の勢力下であった旧武田領でも壮絶な所領争いが起き、同地域を任されていた織田家中・滝川一益と北条氏との間で【神流川の戦い(かんながわのたたかい)】が始まります。
勢いと地の利に勝る北条氏は、この滝川一益との戦いに勝利。
さらなる領土拡張を目指して徳川家康との間にも一戦を交えます。
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徳川にせよ北条にせよ、双方共に力を有していた大国です。
全力で戦って疲弊するより、双方が狙いのエリアを分け合った方が得策だと悟ったのでしょう。
徳川と北条の両者は、こうして最終的に和睦を選びます(天正壬午の乱)。
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この和睦をあっせんしたのが他ならぬ北条氏政であると考えられており、政治・軍事を氏直が主導していた時期においても、外交面では中心的な役割を果たしていたことがわかります。
武田家の旧領争いは、真田家や上杉家も絡んでいて、四方八方を敵に囲まれるより、徳川家と協力関係を築いた方が金銭的なメリットも高いと悟ったのでしょう。
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