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【北条氏政】
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氏康の死をキッカケに武田と和解
謙信から期待した支援を引き出せず、信玄には戦で後れを取る状況にあった元亀2年(1571年)。
これまで三代目として絶大な存在感を放っていた父の北条氏康が亡くなりました。
偉大なる父の死を転機とし、北条氏政は外交の大転換を決断。
先に結んだ謙信との越相同盟を破棄したうえで、武田氏との甲相同盟を復活させます。
極秘裏に進められた交渉の結果として持ち上がった同盟の再締結は「仰天プラン」ともいうべきもの。
同盟の目途が立った北条氏政は、北条氏邦に命じて上杉氏との間に協力関係破棄を知らせあい、武田氏との間では国境の策定および分国の相互不可侵を約束しました。
甲相同盟の復活は関東全域の勢力図に大きな変化をもたらし、北条氏は関東で上杉に味方する勢力との対決に臨むこととなります。
氏政は武蔵北部の木戸氏・深谷上杉氏・簗田氏らに対する攻略を進め、元亀3年(1572年)には氏政自身が出陣して攻撃を加えるほど力を入れていました。
また、並行して佐竹氏・結城氏・小山氏・宇都宮氏といった北関東の反北条勢力にも圧力を加えたことで、多くの敵を相手に戦を強いられます。
さらに、こうした勢力の救援要請に応じた謙信がふたたび関東へと侵攻してきたことで彼らの対処も懸念事項として浮上。
しかし、謙信の南下については首尾よくこれをしのぎ切り、彼はまたもや北条攻めを完遂することなく帰国を余儀なくされました。
父・氏康が重要視していた関宿城を確保!
謙信が北条攻めに本腰を入れなかったこともあり、北条氏政は、ある拠点をターゲットにしました。
父・氏康が「ここを落とすことは一国を得ることに等しい」として攻略を目論んでいた簗田氏の本拠・関宿城(せきやどじょう)です。
この時期には謙信の関心が関東を離れており、加えて上杉方の諸勢力にも内部分裂が発生したため、彼らの攻防はいったん北条氏の勝利という形でひと段落。
関宿城の制圧にも成功します。
その後も謙信の後ろ盾を得た里見氏・佐竹氏といった関東諸勢力との抗争は継続しますが、天正3年(1576年)ごろになると、これまで猛威を振るっていた謙信の関東進出がさほどの効果に繋がらなくなり、この翌年を最後に、上杉は同地域の攻略を諦めるようになります。
謙信という強力なライバルの猛攻を見事に乗り切った氏政。
そこには、後世で伝えられているような「暗君」の姿はありません。
一方、北条氏という強大な勢力に対して各個で立ち向かうことの困難さを痛感していた北関東の諸勢力は、佐竹氏を中心に「反北条」を合言葉として互いに姻戚関係を構築することで協力してこれに対処していきます。
これに対し、氏政も天正6年(1578年)には、東北の伊達氏や蘆名氏と連携する「遠交近攻」策によって佐竹氏攻略を本格化させます。
しかし、反北条勢力の粘り強い抵抗に決定的な攻勢を仕掛けることができず、にらみ合いの末に停戦しての退却を余儀なくされました。
上杉の後継争いに介入
北関東勢力の攻略に苦戦するさなか、これまで抗争を繰り広げてきた上杉氏が大きな転換点を迎えます。
天正6年(1578年)に一家の大黒柱である謙信が急死。
その後継争いである【御館の乱】が勃発したのです
家督の座を狙ったのは、謙信の養子たち二人でした。
一人は長尾政景の息子である上杉景勝で、そしてもう一人が、氏政の異母弟であり、上杉家に養子入りしていた上杉景虎でした。
春日山城での対立が避けられない情勢になると、景虎は実家の縁を頼って北条氏政に救援の要請を出し、氏政もこれに応じる構えを見せますが、現実は北関東制圧に手を焼いている最中であり、本格的な景虎救援を行う余裕はありません。
それでも弟の頼みを邪険に扱わなかった氏政は、同盟関係にあった信玄の後を継いでいた武田勝頼に出兵を要請するとともに、弟の北条氏邦らに命じて上杉方の北条高広や長尾憲景といった勢力を調略。
彼らを「北条軍先鋒」として越後へ派遣しました。
上杉家が真っ二つに割れた「御館の乱」謙信の死後に景勝と景虎が激突した結果は?
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先鋒の戦力は景虎方の諸将とともに戦を優位に展開し、9月には越後上田荘まで侵入していきます。
氏政は現状で確保している拠点の維持を命じるとともに、来年の氏政自身による出兵を約束しました。
ところが、ここで景虎・氏政にとって想定外の事態が発生してしまいます。それは……。
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