寛弘3年(1006年)、強訴する興福寺僧侶の狙いは何なのか?
何やら背後には暴力沙汰があるようで、彼らが審議を求めているのは、
源頼親(みなもとのよりちか)
当麻為頼(たいまのためより)
の二名でした。
「言うことを聞かねば火を放つ」とまで言ってのける定澄に対し、藤原道長は、脅しても無駄だと応戦。
藤原とその氏寺が争って何とするのかと付け加え、さらに続けます。
御仏を預かるものとしてそれでいいのか?
別当でいられないぞ、興福寺とてただでは済まないと定澄に反論するのです。
それにしても、この僧侶たちのおどろおどろしさはなんなのでしょう。
仏事考証はとても大変なものであり、本格的に再現していることでしょう。僧侶を演じる方も本当にご苦労なさっているかと思います。
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興福寺の強訴に動揺する朝廷
道長は陣定で、興福寺の一件を持ち出します。
と、これがなかなかの暴力沙汰で、内容は以下の通り。
・興福寺の僧が殺害される
・その報復として当麻為頼の屋敷と田畑を焼いた
・当麻為頼の上にいる大和守・源頼親からも、興福寺からも訴えがあった
要は、国司である源頼親と興福寺が、殺しと放火のトラブルに発展し、裁定を有利に働かせるため興福寺が【強訴】してきたというわけです。
動揺する帝に対し、判断を誤ったと認めた道長は「検非違使を遣わして追い払いましょう」と進言。
そなたらしからぬ考えだなと帝が反論すると、道長も、内裏裏の門にまで押し入られては朝廷をないがしろにしていることだとして、武力(検非違使)で追い払うしかないと言い切るのでした。
興福寺僧侶たちの悪どさが際立つこの場面、実は道長の先見の明が示されているのかもしれません。
京都は、防衛機能が極めて貧弱であり、天然の要害となる鴨川くらいしか防衛に使えませんでした。暴力で朝廷へ迫れると気づかれてしまったら、手遅れなのです。
そしてその「手遅れ」となる様を、私たちは大河ドラマでも目にしています。
2022年『鎌倉殿の13人』のフィナーレは、【承久の乱】でした。
興福寺の悪僧よりおそろしい坂東武者が御所にズカズカと上がり込み、後鳥羽上皇を流刑にしてドラマは終焉へと向かったものです。
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幕末大河でも同様の場面があります。
【禁門の変】です。
武装して孝明天皇の元へ押しかけ、要望を通そうとした長州藩士が会津・薩摩藩により返り討ちに遭った出来事。
大河ドラマではしばしば悲壮感たっぷりに描かれるものですが、個人的には当然の帰結に思えます。
このとき孝明天皇は長州藩に対して激怒していましたが、それはそうでしょう。
『青天を衝け』で描かれた【天狗党の乱】も、上洛して自分たちの主張を通そうとしたものの、そんなことをされたら大失態となるとおそれた徳川慶喜により、大量処刑された事件です。
つまり、日本史上、暴力を用いて天皇に言うことを聞かせようとする人々はしばしば存在したということです。
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いつも硬い表情の中宮も、敦康親王の前だけでは明るい表情。
すると中宮大夫の藤原斉信が険しい顔でやってきて、中宮を奥の間に隠すよう指示を出します。
興福寺の僧侶が太極殿にまで押し寄せてきている。万一に備え、中宮を守るようにと言うのです。
そうはいっても女房はオロオロするばかり。女性が薙刀で武装して守るようになるのはもっと後のことです。
すると、まひろが清涼殿に連れて行くことを提案します。
万が一のことがあっても、帝のそばにいれば安全だという判断であり、これには斉信も納得。
すぐさま支度を整えて、中宮は帝の元へ向かうと、一条天皇は「大袈裟すぎる」と言います。左大臣が陣頭に立って抑えるから、そなたの父を信じよと語りかけるのです。
「顔をあげよ。そなたは朕の中宮である。こういう時こそ胸を張っておらねばならぬ」
おずおずと帝に目をやる中宮。
帝は微笑みます。
モンスタークレーマーと化した興福寺
藤原顕光が、道長に「興福寺別当を追い払った」と報告してきました。
ただ、左大臣に会いたいと申しているとかで、うんざりしたように「この上何を」と困惑する道長。
内裏にあげるか?と顕光に言われ、後日、土御門へ来るように告げます。
「はぁ、しつこいのう」
うんざりとした様子の道長です。
土御門に定澄がやってきて、道長と面会。定澄はなんと、これだけの要求をつきつけてきました。
1.大和守・源頼親が訴えた「興福寺の僧侶が当麻為頼の屋敷と田畑を焼いた件」を再審査してほしい
2.大和守・源頼親の解任
3.右馬允・当麻為頼の解任
4.蓮聖が公の法会への参列を禁じられているが、任じていただきたい
道長はため息をつきます。
いかなる理由があろうとも、屋敷を焼かれ、田畑を荒らされた方を罰するわけにはいかない。つまり1、2、3は却下です。
蓮聖のことを訴えたいなら、それだけの申し文を書くようにと言い、御仏の道に生きるようにと話を打ち切るのでした。
どっと疲れた様子の道長に対し、部屋を退出した定澄は、去りながらニヤリとしております。
「よかった。ひとつでもこちらの望みが通ったならば上出来だ」
ぬけぬけと言い放つ定澄は老獪で、道長より一枚上手のようです。
日本の仏教は血腥い歴史がある
それにしても一体この僧侶の姿はなんなのか?
先週から頭を悩ませております。
どうやら日本の宗教は、海外からすると理解し難いもののようでして。
東アジアの場合、複数の神を信じていても問題はなく、むしろレアカードを増やす感覚でした。一神教の国や文化からは、これが理解しにくいこともあります。
天皇が仏教を信じようと全く問題ナシ。ときどき道教も混ざります。
『光る君へ』の安倍晴明にしても『鎌倉殿の13人』の阿野全成にしても、道教がハイブリッドされた術を使っていました。
そして仏教の【強訴】やら、戦国大名のもとで軍師のようなことをしている太原雪斎のような人物についても、海外に説明しようとするとなかなか大変です。
中国でも、少林寺僧のように武装することがないとは言い切れません。
ただし、刃物は用いないですし、弱者救済のためにやむを得ず戦うという設定が、エンタメ作品でもなされています。
興福寺のように、ありのままに暴れる宗教関係者となると、邪教徒認定されることでしょう。
道長は「御仏の道を歩め」として、武装に頼らず真面目に修行しろと命じています。
これは北条泰時も「御成敗式目」で規定しました。御仏の道どころか復讐の道を歩んだ公暁のせいで、源実朝は横死を遂げていますので……。
本当に一体なんなんでしょう。
戦国武将が寺社で勉強を習うということも、海外では理解しにくいようです。
遣唐使の廃止以降、情熱を持って中国へ渡り、勉強してくるのは仏僧でした。
最新鋭の学問を身につけてきた僧侶のいる寺は最高の教育機関になります。
殺生を避ける仏僧なのに、人を殺す武将に勉強を教えるってどういうことなの?
ましてや軍師になるとはなんなんだ!
そう困惑されるわけですね。
武田信玄の君臣など、主君に合わせて家臣も大勢が出家し、僧形になって戦い続けるのだからもう、わけがわかりません。
では日本の【僧兵】はいつまで続いたのか?
というと、武装解除が完遂されたのは江戸時代です。
源平時代に最盛期を迎えた 戦う坊主「僧兵」なぜ仏に仕える者が武装している?
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そこでようやく、暴力ではなく仏事で人々の心を広く掴むようになりました。
幕末から明治にかけて、【水戸学】から始まった【廃仏毀釈】という暴挙が起こりました。
しかし、民衆の信仰心は消えません。
戦災や空襲で寺が焼けても、たちまち寄進が集まり再建されてゆく。そこまで心に根付いた存在となりました。
一方で明治以降の宗教、いわゆる新宗教はそうした歳月の積み重ねがない。
となると、一部の宗教団体は平安時代の仏僧のように危険な手口で権力者に接近し、人々を洗脳して利潤を得ようとします。
『どうする家康』でも生臭坊主が出てきて、「宗教はやばい」と現代の問題へと誘導するような描き方でしたが、新宗教とそれ以外は区別して考える必要があるでしょう。
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