大河ドラマ『光る君へ』で三浦翔平さんが演じ、悪い意味で注目された藤原伊周。
その息子である藤原道雅(みちまさ)が第34回放送でクローズアップされ、父親に対する不穏な空気が描かれました。
一体なぜあのような描写になるのか?
というと実は本人も「荒三位(あらさんみ・乱暴者の従三位という意味)」というキツ目のあだ名を持っており、なかなか興味深い存在だったのです。
しかし同時に「乱暴者という評価だけが正しいのか?」という疑問も湧いてきます。
なんせ父の伊周が周囲に疎んじられ、やたらと騒動を起こし、息子としては居場所がない思いだったでしょうし、三条天皇の娘・当子内親王との仲も悲恋に終わり、絶望感から詠まれた歌は「百人一首」に収められました。
いったい藤原道雅とはどんな人物だったのか?
天喜2年(1054年)7月20日はその命日。本記事で生涯を振り返ってみましょう。
幼い頃は可愛がられていた
藤原道雅が生まれたのは正暦三年(992年)。
父は前述のとおり藤原伊周であり、母は嫡妻である源重光の娘でした。
当時、伊周の生まれた中関白家は、いわゆる絶頂期です。
道雅にとっては叔母にあたる藤原定子が一条天皇の中宮として寵愛され、あとは皇子の誕生を待つばかり……といった時期。

枕草子絵詞/wikipediaより引用
幼い頃の道雅(幼名:松君)も定子の御殿に連れて行ってもらったことがあり、その様子は枕草子にも描かれています。
このとき祖父の藤原道隆が、松君を指しながら
「中宮様のお子と言ってもいいくらい可愛らしいのに(なぜ中宮にはまだ子供が授からないのだろう)」
と発言し、定子が居心地悪そうにしています。
子供の催促だなんて誰が見ても気分の良いものではありませんし、ドラマでも酷い有り様として井浦新さんが熱演されていましたね。
ちなみにこの段では、直後に一条天皇が定子を訪れ「昼間から子作りに励む」という凄まじい流れが伝えられています。
もちろん道隆や清少納言をはじめとした女房たちは席を外していますし、当時の建物の作りや宮廷生活を考えると、昼間であろうと夜であろうと他者にそういう状況が感づかれるのは変わらないと思われますが……現代人からすると「えっ!?」となる場面ですよね。
実際、こちらの場面もドラマで流され、SNSなどでは大いに話題になっていました。
父・伊周のとばっちりで暗雲が垂れ込める
そうした微妙な雰囲気の中で育っていった松君こと藤原道雅。
しばらくは道隆の威光で父の藤原伊周もガンガン昇進しますが、天狗になりすぎたしか、やがて周囲の貴族だけでなく一条天皇からも不興を買うようになってしまいます。

一条天皇/wikipediaより引用
決定的なことが起きるのは長徳元年(995年)以降のことです。
この年に道隆が糖尿病らしき病で亡くなると、その後を継いで関白になっていた藤原道兼も流行病で病死。
政治を主導できそうな人物が道長と伊周に絞られ、激しく火花を散らしながら、一条天皇の生母・藤原詮子(東三条院)がバックにいる道長がやや有利といった状況へ。
そして長徳二年(996年)に事件が起きます。
【長徳の変】です。
ドラマでも報じられたように、勘違いから花山院へ向けて藤原隆家が矢を放ってしまい、伊周と二人で流罪同様の処置が断行されました。

藤原伊周/wikipediaより引用
この件は「定子が自ら髪を下ろした」とか、「母の高階貴子が流罪になる伊周の車に取りすがった」とか、そのへんの話がクローズアップされがちです。
しかし、最も悪影響を受けてしまったのは、次代を担う藤原道雅といっても過言ではないでしょう。
伊周が品行方正でさえあれば、定子が皇子を産み次第、中関白家が盤石の地位を保てる可能性が高まったのですから。
それが、以前から伊周が貴族たちの反感を買っていた上に、長徳の変でどうしようもない状態になってしまったわけです。
道雅がどれだけ努力しても、もはや立場をひっくり返すのは至難の業。
しかも伊周は長徳三年(997年)に罪を許されてからも、自分の立場をわきまえようとしませんでした。
道雅の話から少々それますが、彼の背景を理解するために必要ですので、当時の状況をここで簡単にまとめましょう。
長徳二年(996年) 定子が最初の女児・脩子内親王を出産
長徳三年(997年) 伊周が罪を許されて帰京
長保元年(999年) 定子が第一皇子となる敦康親王を出産/同じ日に彰子が入内する
長保二年(1001年) 定子が媄子内親王を出産しながら翌日に産褥死
寛弘五年(1008年) 彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を出産
寛弘六年(1009年) 彰子が敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産
定子は、一男二女をもうけながら亡くなってしまい、一方で彰子が立て続けに皇子に恵まれたのです。
ただでさえ立場が弱まっていた伊周ら中関白家が再浮上する見込みは、これでほとんどなくなってしまいました。
しかも藤原伊周は、さらに不祥事を重ねます。
立つ鳥跡を濁して伊周は逝去
藤原伊周がいったい何をしでかしたのか?
というと、敦成親王のお祝いの席でお祝いの歌を詠む人の筆を無理やり奪い、自分と敦康親王の存在を誇示するようなことをしてしまうのです。
これでは道長以外の人も「はぁ???」としか思わないのは当然のこと。
「伊周は全く反省してないし、ほっといたら敦成親王に直接危害を加えてもおかしくない」と思われてしまったでしょう。
さらに寛弘六年(1009年)には、”伊周が彰子と敦成親王を呪詛した”という容疑がかかり、またしても処罰されてしまいました。
こちらは数ヶ月で許されましたが、恥の上塗りどころか罪の上塗りというもの。
当然、その息子である藤原道雅も余波を受けたことでしょう。
道雅本人が何もしていなくても、
「あの伊周の息子じゃ、何をしでかすかわからん」
「何かしたときに巻き込まれるだなんて勘弁」
とばかりに思われ、ろくに社交もできなかったのではないでしょうか。
しかも当の伊周は、翌年の寛弘七年(1010年)に病死しますので、後始末も十分にはできなかった可能性もありますし、息子である道雅への対応もどれだけ行えたか不明。
なんせ伊周から道雅に対する遺言がどうしようもありません。
「人に追従するくらいなら出家しろ」
道雅からすれば「いやいや、父上こそ、余計なことをする前に仏門に入ればよろしかったのに!」とでも言い返したかったのではないでしょうか。
遠慮を知る若者
もはや怒りのぶつけどころすら見失ってしまった藤原道雅。
父ほど感情的なタイプではなかったらしく、しばらくは平穏に過ごしていたと思われます。
時系列が前後してしまいますが、道雅は寛弘年間に岩清水臨時祭や道長の春日大社詣での際に舞人を務めており、普通の貴族として振る舞っているのです。
一条天皇も伊周の言動には不快感を示していたものの、道雅に対しては憐れみを感じたかもしれません。
というのも寛弘五年(1008年)2月に、春日祭使という大役を道雅に命じているのです。

春日祭 御戸開之儀/wikipediaより引用
このときは道雅のほうが恐縮してしまい、それでも一条天皇がゴリ押ししようとしました。
最終的には道雅が遠慮し、代官を立てて収束しています。
一条天皇としては「道雅は、伊周とは違う」ということを世間にオープンにして、それなりの地位をいずれ用意してやろうとしたのかもしれません。しかし……。
道雅にとってはありがた迷惑だった可能性もあります。
道雅は三条天皇の御代になった後、長和四年(1015年)に春日祭の東宮使を命じられたときも遠慮しているのです。

三条天皇(居貞親王)/wikipediaより引用
彼としては、こんな風に思っていたのかもしれません。
「もう関白になれる望みもないし、大舞台で恥をかくようなことになったら、それこそ落ちぶれてしまう。それならいっそ地味に過ごしていたほうがいい」
「荒三位」と呼ばれるほどの乱暴者
一方で藤原道雅にも、父に似て後先考えない暴挙もありました。
関与したことが確実な暴力事件がいくつか伝わっているのです。
・道雅が、敦明親王の従者を半殺しにした
敦明親王とは、三条天皇の嫡子です。
藤原道長が自分の外孫である敦成親王(のちの後一条天皇)を東宮(≒次の天皇)にしたがったために、このときは宙ぶらりんの状態になっていました。
後に一旦東宮にはなっていますが、自らその位を降りています。
そんなわけで、道雅も敦道親王も不遇な状態だったのですが、長和二年(1013年)、そんな二人の間で事件が起きてしまったのです。
その日、敦明親王の従者である小野為明が母后・藤原娍子への用事で、内裏の弘徽殿に参上していました。
しかしなぜか、道雅の意を受けた者たちによって為明は道雅邸に拉致され、道雅とその従者たちによってボコボコにされてしまったのです。
為明はなんとか逃げて敦明親王に訴え、敦明親王からも上に報告し、道雅らは処分されることになりました。
なぜ道雅は、急にこんなバカな真似をしたのか?
詳細は不明ですが、理由になりそうな背景が、以下の様に挙げられれます。
・道雅は寛弘八年(1011年)に春宮権亮として敦成親王に仕えていたので、敦成親王派vs敦明親王派の対立があった
・中関白家が再興する見込みがなかった
・当時は「上級貴族が身分の低い者に暴行しても問題ない」という社会通念があった
詳しくは後述しますが、この後に道雅は敦明親王の同母妹・当子内親王と恋仲になります。
もしも中関白家が没落していなければ、おそらく三条天皇は当子内親王を道雅に降嫁させることも許したでしょう。
その場合、他に問題がなければ道雅と敦明親王は義理の兄弟として力を合わせ、政治を担うこともあったかもしれません。
歴史で「たられば」を言うのは禁句とされていますが、どうしても考えてみたくなってしまいませんか。
藤原道雅の名がさらに注目されるのは、寛仁元年(1017年)のこと。
三条天皇の皇女・当子内親王との恋仲が世間にバレてしまいます。
内親王との悲恋
藤原道雅と当子内親王との恋は、どのような道筋を辿ったのか。
藤原行成の日記『権記』などの記述によれば、
長和五年(1016年)9月:三条天皇の譲位により、当子内親王が斎宮の任を終えて帰京
日付不明:当子内親王の乳母が道雅を手引
寛仁元年(1017年)4月10日:密通が世間にバレる
4月11日:三条上皇にこの件が報告される
4月21~24日:三条上皇病悩
27日:三条上皇病悩
28日:三条上皇危篤
29日:三条上皇出家
5月7~8日:三条上皇病悩
5月9日:三条院崩御
という流れで、あれよあれよという間に三条天皇が崩御してしまうのです。
「斎宮の任期中ならばお怒りもごもっともだが、既に務めを果たされて帰ってきた後なのだから、問題ないのでは?」
世間ではそんな声もありましたし、おそらく内親王の周囲の人々もそう思っていたのでしょう。
しかし、前述の通り三条上皇は二人の仲を許しませんでした。
将来性などの問題からか、それとも「内親王は基本的に生涯未婚」という原則にそぐわないからか、真実は不明。
当子内親王を母后・藤原娍子のもとに引き取らせ、道雅が通ってこられないようにしてしまうのです。
ちなみに、娍子は遡ること13年前、寛弘元年(1004年)に、敦道親王(三条天皇の同母弟)の正妻であった妹を引き取っています。
これは敦道親王が和泉式部を邸に住まわせ、正妻を怒らせてしまったことによります。
娍子も有力な後ろ盾がないために苦労していましたが、その周囲でもなかなか難儀な立場の女性が多かったようです。
こうして愛する人に会えなくなり、道雅が詠んだのが、百人一首にも採られている以下の歌です。
今はただ 思い絶えなん とばかりを 人づてならで いふよしもがな
【意訳】人づてではなく、せめて最後に直接お会いしてお別れを申し上げたい。それだけなのにどうしようもありません
平易な分、道雅の心情がそのまま表れていますね……。
良くも悪くも情が濃い中関白家の人らしい詠みぶり、といえるでしょうか。
『後拾遺和歌集』に収められているのですが、実は前に二首、後に一首道雅の歌があります。
現代使われている通し番号と共に見ておきましょう。
◆00748
逢坂は 東路とこそ 聞きしかど 心づくしの 関にぞありける
【意訳】逢坂の関は東=吾妻に会いに行くための関所だと聞いたが、私にとっては心が尽きる=筑紫の関のような場所だ
◆00749
さかき葉の ゆふしでかけし その神に おしかへしても 似たるころかな
【意訳】あの方が榊葉の木綿四手(ゆうしで)に囲まれていた斎宮の頃のように、今はもう手が届かなくなってしまった
◆00750が「今はただ~」
◆00751
みちのくの 緒絶(おだえ)の橋や これならむ ふみみふますみ 心まどはす
【意訳】陸奥の緒絶の橋とはきっとこのようなものなのだろう。あの方からの文が来たり来なかったり、その度に橋の先へ踏み出そうかどうか心が惑う
四首とも当子内親王への強い愛情が感じられて、読み手としても切なくなりますね……。
「内親王との禁断の恋」というと、『源氏物語』の柏木と女三の宮を想起した方もいらっしゃるでしょうか。
・優等生が恋に狂った感のある柏木
・普段乱暴だけれども恋人には真摯だったらしき道雅
そんな違いがありますけれども、著者の紫式部がこの事件の頃も存命だった可能性が高いので、何か思うところがあったのかもしれません。
この件をモデルにして柏木と女三の宮の話が書かれたかどうか?というのは『源氏物語』の執筆ペースや順番がわからないのでなんともいいがたいところです。
壮年になっても一悶着起こす
一方、最高権力者である藤原道長としては、この恋の件をあまり気にしていなかったと思われます。
およそ半年後の寛仁元年(1017年)9月22日に、道長が石清水八幡宮を参詣した際、道雅が騎馬でお供しているのです。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
翌寛仁二年(1018年)3月25日に、後一条天皇が道長の娘・藤原威子のもとを訪れる際にも、お供の一人として道雅がいたことがわかっています。
道長にしてみれば「既に中関白家は政敵になり得ない」と判断していたのでしょう。
しかし、道雅は万寿三年(1026年)に降格され、いよいよ荒んでしまいます。
万寿四年(1027年)7月18日、自らの名を落とす事件を起こしてしまうのです。
この日、道雅は高階順業という貴族の家で賭博をしていました。
他に誰かいたかどうか、詳細はわかっていませんが、道雅と順業の二人だけだった場合は、双六に興じていたのかもしれません。当時の双六は賭け事にもよく使われたためです。
順業は名字からして、おそらく道雅の祖母・高階貴子の親族でしょう。
賭け事にはよくあることで、二人は次第に「口角泡を飛ばす」感じになってしまったようです。
そして順業の乳母父にあたる惟宗兼任という人物が登場。
兼任は順業に助太刀しようとしてか、道雅の袖に掴みかかって引き破りました。
これによりさらに頭に血が上った道雅!
兼任と派手な殴り合いを始めてしまうのです――。
両者とも周りが見えなくなっていたのか、いつの間にか順業の屋敷から道端に出てしまい、その場に居合わせた庶民たちが見物するほどの大騒ぎへ発展。
冒頭で述べた通り、道雅は正暦三年(992年)生まれなので、この大ゲンカの時点で数え36歳です。
30~40代で亡くなる者も珍しくない時代に元気すぎというか、落ち着き無さすぎというか、大人げないというか。
こんな感じですっかりシャレにならない乱暴者になってしまった道雅は、
「荒三位」とか「悪三位」
とあだ名され、すっかり面倒な人扱いされてしまうようになります。
かつての恋人・当子内親王は治安二年(1022年)に薨去していましたので、この悪名が彼女に届かなかったことは不幸中の幸いと言えましょうか……。
晩年は和歌に生きる
一方で藤原道雅は、父・伊周の才能を受け継いだのか、和歌を愛する面もありました。
寛徳元年(1044年)夏と、永承二年(1047年)に八条の山荘で歌会を開催。
寛徳二年(1045年)には左京大夫に復帰しましたが、出世や現世への執着がなくなっていたようで、その後、この山荘を本邸にし、歌人たちとの社交に徹していたと伝わります。
もはや世捨て人のようになっていたのですね。
そして、亡くなったのは天喜二年(1054年)7月20日のこと。
当子内親王との大恋愛からは、実に27年の歳月が経過していました。
長徳の変が起こらなかったら……もしくは当子内親王との恋が実っていれば……これほど道雅が荒れることはなかったのではないでしょうか。
生まれながらに荒っぽい性格であれば、当子内親王との恋の前にそうした逸話があっても不思議ではありません。
単なる乱暴者に内親王がなびいたり、乳母が味方するというのも考えにくいです。
となると、やはり道勝の根っこには、純情さや真面目さがあったのではないでしょうか。
ちょっと贔屓しすぎですかね。
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国史大辞典
日本人名大辞典
ほか





