永承4年(1049年)2月7日は脩子内親王(しゅうしないしんのう)の命日です。
いったい誰?と思う方もいれば、大河ドラマ『光る君へ』を思い出される方もいらっしゃるでしょうか。
劇中で高畑充希さん演じていた定子は、一条天皇との間に三人の子供(一男二女)をもうけていましたが脩子内親王は三人の中で最初に生まれた第一皇女となります。
ご存知、定子は父の藤原道隆や兄の藤原伊周に振り回され、一度は“髪を切る”という極端な状況に追い込まれた方。
その娘である脩子内親王も、不幸な未来ばかりが頭に浮かんできそうではあります。
実際のところはどうだったのか?その生涯を振り返ってみましょう。
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中関白家が待ち侘びた待望の第一子
長徳二年(997年)12月16日、中関白家が待ちに待ち侘びた待望の第一子が生まれました。
父は一条天皇で、母は藤原定子。
脩子内親王(しゅうしないしんのう)と呼ばれるこの第一皇女は、二人にとって喉から手が出るほど欲しかった初子でしたが、当時の状況は最悪でした。
長徳元年(995年)に起きた【長徳の変】で、定子の兄弟である藤原伊周と藤原隆家の兄弟が左遷されていたためです。
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藤原伊周/wikipediaより引用
そのショックで定子は出家し、母の高階貴子も亡くなってしまい、それから程なくしての妊娠・出産だったため、世間では色々言われてしまったのでした。
もちろん生まれてくる脩子内親王本人には関係のないことです。
一条天皇も伊周に対して思うところはあったでしょうが、やはり寵妃と長女への愛情が勝り、長徳三年(998年)6月には職曹司(しきのぞうし)に呼び戻しています。
職曹司とは、中宮に関する事務を担当する役所のこと。
案の定というか、この措置は、貴族社会から反感でもって受け取られました。
ではなぜ、そんなことが可能だったか?というと、およそ2ヶ月前の長徳三年4月に伊周・隆家が恩赦を受けていた影響があったからでしょう。
地方へ飛ばされていた兄や弟が戻ってくる。
かと言って、すべてがリセットされるわけもありません。
職曹司は、内裏(天皇や后妃たちの生活空間)の中ではなく、その外側にある大内裏(政庁エリア)にありました。
中宮の住まいにはふさわしくない建物で「鬼が出る」とまで言われていたようです。
『枕草子』からは、清少納言や定子の女房たちが物珍しく楽しんでいたように見えますが、幼い脩子内親王や、出産間もない上に不安定な立場の定子にとってはどうだったか……。
一条天皇としても、定子を元の御殿へ戻したかったのが本心でしょうが、さすがに示しがつかないので、「少しでも近いところに」ということで職曹司を選んだのでしょう。
現代でいうところの七五三に近い「着袴(ちゃっこ)の儀」は、長徳四年(998年)12月17日に行われました。
子供が初めて袴を着る儀式で、本来であれば皇女の腰紐を結ぶ役は天皇が行うことになっています。
しかしこの日は一条天皇が物忌だったため、左大臣の道長が代理を務めました。
この時点では一条天皇に他の子供もおらず、道長の長女・藤原彰子も入内できる状態ではなく、道長としては不本意だったかもしれません。
弟と妹に恵まれるも母が亡くなり
藤原定子と一条天皇の間には、その後、二人の子供が生まれました。
長保元年(999年)に脩子内親王から見て弟であり、一条天皇の第一皇子でもある敦康親王(あつやすしんのう)。
長保二年(1000年)に妹となる媄子内親王(びしないしんのう)です。
しかし、その直後にまたもや不幸に遭遇します。
媄子内親王の出産後に、頼るべき母の定子が亡くなってしまったのです。
そのため脩子内親王たちは、定子の妹(叔母)の御匣殿によって、後宮の弘徽殿で育てられることになるのですが、その御匣殿も長保四年(1002年)に亡くなってしまう。
一体どうなってしまうのか?
実はこの間の長保元年(999年)11月、藤原道長の娘・藤原彰子が入内していました。
そして御匣殿が亡くなった後、彰子は一条天皇の意向で敦康親王の養母となり、妹の媄子内親王は一条天皇の母である藤原詮子に引き取られたとされています。
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藤原詮子/wikipediaより引用
では脩子内親王は?
というと、御匣殿死去の後どこにいたのかハッキリしていません。
寛弘二年(1005年)3月27日には清涼殿で脩子内親王の裳着が行われていますので、宮中の可能性が高いでしょうか。
やはり愛娘故か、【裳着の式】は一条天皇の命令で「后腹の皇女」として盛大に執り行われています。
裳の腰結は道長が務めたとのことです。
ちなみに母方の伯父である藤原伊周、そして叔父の藤原隆家は、裳着に関する役目はなく、参列者にとどまっています。
この時点で恩赦から約7年が経過しているのですが、長徳の変によるドタバタの影響が大きすぎたようで……。
裳着の翌日には脩子内親王が三品に除され、個人での収入が確保されました。
「品」というのは皇族の位である「品位(ほんい)」の一つで、一品~四品まであり、臣下の位階と同様、数字が小さくなるほど品位が高く、収入も増加します。
一条天皇の愛娘に対する愛情がうかがえる措置です。
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一条天皇/wikipediaより引用
一品准三宮を与えられ
寛弘三年(1006年)8月。
藤原彰子の御所(この頃は一条院内裏)で、
・脩子内親王
・敦康親王
・媄子内親王
の三きょうだいが揃って童相撲を見物したと記録されています。
直前に敦康親王が体調を崩していたため、そのお祓いという面が強かったのでしょう。
あるいは彰子が「きょうだいを対面させてあげたい」と考えて呼び集めたのかもしれません。
彰子は一条天皇の意向に忠実ですから、三人とも健康でいてほしいと思っていたでしょうし。
寛弘四年(1007年)になると、一条天皇は脩子内親王(しゅうしないしんのう)を一品(いっぽん)に引き上げ、さらに准三宮としました。
一品は后腹の親王・内親王に与えられることが多いのですが、内親王に准三宮を与えるというのは、当時で史上三人目だったようです。
これも、一条天皇が将来に渡って愛娘の生活を安定させるために与えたのでしょう。
内親王の立場を安定させる手段としては、他に”伊勢の斎宮や賀茂の斎院に任じる”こともできますが、
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斎宮の居室(手前は内侍) 斎宮歴史博物館/wikipediaより引用
占いで選ばれないといけませんし、神に仕えてしまうと、さらに会う機会が減ってしまいます。
一条天皇としては、脩子内親王の姿形が定子に似ていて、近くに居てほしかったのかもしれません。
寛弘五年(1008年)5月25日には、妹の媄子内親王(びしないしんのう)が病死。
脩子内親王と敦康親王は、お互いが唯一の身内同然の状況になってしまいます。
「一条天皇も伊周もいるじゃん」とツッコミたくなった方もおられるかもしれませんが、どちらもそう簡単に会える状況ではありません。
入れ替わるように、寛弘五年(1008年)9月に藤原彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を出産しました。
脩子内親王と敦康親王の本心からすると、異母弟ができた嬉しさより、立場が弱まる不安のほうが大きかったのかもしれません。
しかも寛弘七年(1010年)1月には、伯父の藤原伊周が亡くなり、また一人肉親を喪ってしまいました。
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