脩子内親王

枕草子絵詞より/wikipediaより引用

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定子の長女・脩子内親王(一条天皇の第一皇女)母亡き後は不幸な生涯だったのか

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女房・相模と共にサロンを形成?

そこからしばらく話が飛びますが、『栄花物語』によると、万寿元年(1024年)1月、異母弟の後一条天皇から脩子内親王

「宮中に住んではいかが?」

というお誘いがかかったとされています。

物語を鵜呑みにするわけにはいきませんが、異母姉弟の関係が良好だったことは伺えるでしょう。

しかし、同年3月4日に脩子内親王は出家しています。

”20日ほど体調がすぐれなかったため決意した”とのことですが……上記のお誘いが事実であれば、宮中に戻るか否か、相当悩んだ末に体調を崩してしまったのかもしれません。

脩子内親王にとって、宮中は弟妹との思い出の場所でもあり、母と死に別れた場所ですから、悩むのも宜(むべ)なるかなというところ。

この後も相変わらず脩子内親王の言動に関する記録は多くありませんが、出家した後のどこかの時期から、女流歌人の相模が彼女に仕え始めたと考えられています。

相模とは、百人一首に選ばれた次の一首で知られている人で。

うらみ侘び ほさぬ袖だに ある物を 恋にくちなん 名こそおしけれ

【意訳】あなたを恨んで泣いて、私の袖は朽ち果ててゆくばかり。この恋のせいでこんなつらい目に遭っているのが世間に知れて、私の名もこのように朽ちるのかと思うと、悔しくて仕方がありません

彼女の夫が相模守であり、任地にもついて行ったのでこの通称がつきました。

しかし、この夫が、今でいうところのDVをやらかすような人物だったらしく、女癖は悪いわ、相模の書いたものを捨てるわで、決して良い結婚生活とはいえません。

そこで相模が離婚して、京都に戻ってきたのが万寿二年(1025年)頃とされ、脩子内親王が出家した翌年以降のどこかで出仕したと見るのが妥当でしょう。

どんな経緯で相模が脩子内親王に仕えたのか。

詳細は不明ですが、もしかすると脩子内親王は自らの周囲に文芸サロンのようなものを作りたかったのかもしれません。

当時の貴族女性にとって憧れの出仕先といえば、賀茂の”大斎院”こと選子内親王でした。

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『枕草子』や『紫式部日記』でも語られている人ですので、見覚えのある方も多そうですね。

しかし選子内親王は 応和四年(964年)4月24日生まれですから、相模が京都に戻ってきた頃には相当な老齢。

仮に相模が「斎院様にお仕えしたい」と思い、ツテがあったとしても実現は難しかったはず。

それを聞きつけた脩子内親王、もしくは周辺の人々が「こちらへ来てはどうか?」と話をつけて、その通りになった……というような流れが想像できます。

脩子内親王にとっても大叔母にあたる選子内親王と、そのサロンは憧れだった可能性が高そうですし、「私の周囲にも素敵な文芸の場を作りたい」と考えても不自然ではありません。

そこに相模のような優れた歌人が帰京したと聞けば、声をかけそうですよね。

万寿四年(1028年)12月4日、藤原道長が逝去。

3年後の長元四年(1031年)に選子内親王が老病により斎院を退下しましたので、才能ある女房たちの行き所は限られ始めていました。

他に……となると、この時期には皇太后となっていた彰子や、後朱雀天皇の后妃たちのところも可能性としてはありえます。

しかし相模からすると

「宮中に上がったら、男性としょっちゅう顔を合わせなきゃいけないから嫌」

と考えてもおかしくはありません。

実際、相模を口説こうとする男性は複数人おり、その中には小式部内侍(和泉式部の娘)にやり込められて有名になった藤原定頼(藤原公任の息子)などもいました。

となると、生涯独身を通す立場である脩子内親王のもとならば、歌の才を評価されつつ穏やかに仕えられる――そんな魅力を感じても不思議ではないでしょう。

この主従に関する逸話は伝えられていないため、完全に妄想の域ですが。

 


養女・延子が入内して

相模が来たことも影響しているのか。

脩子内親王(しゅうしないしんのう)は出家後の長久元年(1041年)と長久二年(1041年)に歌合を催しています。

これまでの脩子内親王に関する記録の少なさからすると、以前はあまり社交をしていなかったと思われるので、何らかの心境の変化があったのかもしれません。

断定はできませんが、養女・延子が入内しているのです。

延子は藤原頼宗の次女で、母は藤原伊周の娘。

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脩子内親王からすると、いとこを養女にしたことになりますね。

入内の話は後一条天皇の頃にもあったらしいのですが、なかなか話が進まなかったのか、後朱雀天皇に持ち越されました。

そして延子が実際に入内したのが長久三年(1042年)3月26日のことです。

もしかすると、脩子内親王は延子に宮中の雰囲気やしきたりを学ばせ、歌才や文学的素養を磨くために、二年前から歌合を催したのかもしれません。

また、脩子内親王の歌合に参加していた女房のうち、加賀左衛門と呼ばれていた人が延子に従って宮中に入ったともいわれています。

さらに延子もまた永承五年(1050年)には自分で歌合を主催しており、そこに相模や加賀左衛門が参加しているため、養母の思い出なども語りたかったのかもしれませんね。

前述の通り、脩子内親王の交友関係については明確な記録が乏しいのですが、

・歌の詞書で「一品宮に仕えている女性へ送った」というものがあったり

・「入道一品宮の元に人々が集まって遊んだ際に、敦貞親王(三条天皇の孫)が見事に笛を吹いた」

といった記述が散見されるため、貴族たちの出入りはたびたびあったようです。

脩子内親王のサロンも文芸的なものとして貴族社会に知られ、おそらく脩子内親王だけでなく、延子の評判にも良い影響を与えたでしょう。

 


死去

脩子内親王が亡くなったのは、永承四年(1049年)2月7日のことです。

これに先立つ寛徳二年(1045年)1月に異母弟の後朱雀天皇が崩御していましたが、同年4月に養女の延子が正子内親王を産んでいたため、脩子内親王の晩年の楽しみになっていたかもしれません。

脩子内親王の葬儀は永承四年2月15日に行われました。

その際、小侍従命婦という女房が相模に対して

いにしへの 薪もけふの 君が世も つきはてぬるを みるぞ悲しき

【意訳】薪尽火滅(釈迦入滅)も、今日宮様のお命が尽きてしまったこともとても悲しい

という歌を送り、相模からは

時しもあれ 春のなかばに あやまたぬ 夜半の煙は うたがひもなし

【意訳】折しも今日はお釈迦様が入滅した如月十五日。この日にご葬送となったのですから、宮様がご成仏なされたことは疑いようもありません

と返歌しています。

主人が亡くなったのは悲しいが、きっと成仏できたに違いない――そう思うことで相手を慰めつつ、自分の気持にも整理をつけようとしたのでしょう。

自分が世を去った後も女房たちが慕ってくれている。

そう知ったら、脩子内親王も慰められたのではないでしょうか。


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長月 七紀・記

【参考】
服藤早苗/日本歴史学会『藤原彰子 (人物叢書) 』(→amazon
倉本一宏/日本歴史学会『一条天皇 (人物叢書)』(→amazon
日本人名大辞典
『脩子内親王の文化圏 : 『枕草子』の善本所蔵に関連して』(→link
ほか

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