大河ドラマ『鎌倉殿の13人』におけるクライマックスは【承久の乱】。
後鳥羽上皇の仕掛た戦に対し、鎌倉方の御家人たちは一瞬心が折れそうになりながらも、北条政子の演説によって奮起し、軍勢を率いて京都へ上る。
そのときどんな戦いが行われたのか?
そもそも鎌倉時代の武士たちは如何なる合戦をしていたのか?
今回は、中世武士たちの戦い方をまとめながら、承久の乱の象徴とも言える【宇治川の戦い】に注目。
当時を振り返ってみたいと思います!
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同じ武士でも鎌倉と戦国は違う
そもそも鎌倉時代の武士は合戦において如何なる戦い方をしていたか?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では巧妙に映像化されていて、それは戦国時代後期を舞台とした大河『麒麟がくる』と比較すると違いがより明確になります。
項目別に見て参りましょう。
◆剣術
京都の街中で明智光秀と細川藤孝が刀を構え、睨み合うシーンがありました。
あるいは光秀が足利義昭に厳しく稽古をつけたり、将軍・足利義輝が凄絶な斬り合いの末に死したり。
そこには古武術らしい力強さと洗練さがありました。
竹刀での打ち合いによりスポーツ化していた幕末とは異なり、生々しい迫力があったものです。
それが『鎌倉殿の13人』では、もっと生々しいものとなりました。
構えや技は洗練されておらず、突如、殴りかかったり、川に沈めたり、あるいは複数名で袋叩きにする。
武芸としての流儀も何もない、荒々しい暴力がありました。
◆兵法
『麒麟がくる』では、斎藤道三と明智光秀が『孫子』を引用しつつ、戦術を確認する場面がありました。
『鎌倉殿の13人』では、ある程度教養がある畠山重忠と、そういったものがない和田義盛の姿が対照的に描かれていました。
高所に陣を取る兵法の基礎を実践する重忠。
草地の中を移動して動物を怯えさせ、居所が察知されてしまう義盛。
ちょっとした教養の差が戦闘の勝敗を分けます。
また、源義経には、鬼一法眼から兵法書『六韜』を授けられたという伝説があります。
『六韜』は妖術を伝授するわけではなく、『孫子』でも代用はできますので、義経と信玄を比較するとわかりやすいかもしれません。
『六韜』の習得そのものが“伝説”扱いとなる源義経。
これに対し武田信玄は『孫子』を読み込み、「風林火山」を掲げて軍規軍律を保ちながら戦に挑みました。
どこまで兵法が浸透していたか?明らかに差がありますね。
義経は鎌倉時代では天才軍略家として活躍しましたが、そのまま戦国時代に通用するかどうか?は別の話となります。
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◆呪術
『鎌倉殿の13人』では【石橋山の戦い】で大庭景親と北条時政が悪口を言い合う場面がありました。
コメディタッチの演出だったため『何をフザけているんだ?』と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、当時は「天の加護があれば口で言い争っても勝敗が分かれる」と信じられていたため、戦の重要な要素でした。
戦国時代に後期に、そこまで重要視された事例はありません。
◆甲冑・装備
『鎌倉殿の13人』の甲冑は重装備なのでとにかく辛い!
大河ドラマや時代劇の出演経験が豊富な山本耕史さんですら、そう嘆くほどだとか。
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甲冑は、時代が進むにつれて着用しやすく、軽くなるよう、実践的に改良されてゆきました。
当然ながら戦国時代の方が見た目もスッキリしていて、防御力も高くなっています。
では実際にどう戦っていたか?
弓射騎兵:まずは馬上で射る
鎌倉時代の戦闘はいかにして行われたか?
まず考えたいのが騎兵です。馬上で戦う武士のことであり、攻撃手段は主に二つあります。
敵を切り付けるか?
それとも弓で狙い射つか?
機動力を活かすなら、刃物で馬上から切り付けるほうがメリットある。
一方、弓矢については、敵との間合いを探りつつ、移動しながら射かけることができるため、高度な技量を持てば持つほど有利になる。
その技量を表現するイベントが流鏑馬(やぶさめ)ですね。
では鎌倉時代の騎兵は実際にどう戦っていたか?
馬静止射――馬を止めて射ることが多いものでした。
代表例は「扇の的」で知られる那須与一でしょうか。
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馬を止めて一斉に矢を射つ戦術もありましたが、これができるのは開けた土地に限られます。
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組打:荒々しく殴り合う
『鎌倉殿の13人』では、畠山重忠との戦いで、北条義時が馬から飛び移り、相手を落として殴り合う迫力満点の場面がありました。
馬上で打物(太刀・長刀等)を振るい、地上に落ちたら組打(くみうち)へ。
それが当時の戦闘ですので、馬上から一気に落とす義時の戦術は間違いではありません。
武術も洗練されておらず、武器も威力を前提としており、美術品としての装飾などは二の次。
ゆえに鎌倉時代の刀剣は禍々しいほど殺傷に特化しています。
次に「防衛」について考えてみましょう。
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