「弓馬の道」という言葉があるように、古代~中世の武士にとって弓矢は、魂とも言える大切な武器。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、源頼朝が弓を構えたり、山内首藤経俊や比企能員の矢に一本一本名前が書かれていたり、逆に「あまり得意じゃない……」と源義経がしおらしくなっていたり。
なぜ彼らはあそこまで弓矢に思い入れがあったのか?
大切とは言うけれど、実際、武士にとってどんな存在だったのか?
本稿では、鎌倉武士と弓矢について考察します。

弓の名人として知られる源為朝/wikipediaより引用
和弓:扱いが難しいのはなぜか
人新世(じんしんせい)――最近、こんな言葉を耳にしたことはありませんか?
人類の活動が「地球の環境や生態系に影響を与える時代」を指しますが、振り返ってみると人類はずっとそうでした。
直立歩行で道具を操る。
道具が発達しすぎて、野生動物を滅ぼしてしまう。
すなわち武器が進化するわけですが、その中でも、世界各地の文明圏で古くから用いられたのが弓矢です。
遠くまで飛び、獲物をもたらす――あまりに画期的な道具だったことは、世界各地の神々や勇者が弓を持っていることからもご理解いただけるでしょう。
要は神聖な道具であり、『鎌倉殿の13人』の舞台でも、その存在は際立っていました。
源平合戦の名場面には、弓にまつわるものが多い。
那須与一が腕前を見せた「扇の的」。

義経が弓を海に落としてしまい、自分の弓が弱いことを知られたくないと必死に回収した「弓流し」。
『鎌倉殿の13人』でも象徴的なシーンがありました。
頼朝の命を受け、義経が出陣を果たす場面です。
このとき頼朝は余裕をもって弓を引いているのに対し、義経は腕が震えていました。
義経が放った矢が、兄・頼朝の矢を的から弾き出しましたが、注目すべきは義経の非力さでしょう。
義経にとって頼朝の弓は強過ぎたのです。
第11回の放送でも、兄の義円が強い弓を引く様子を義経がムスッとしながら眺める様子がありました。

源義経/wikipediaより引用
実は、頼朝は弓の名手と伝えられています。
一方で義経は、強い弓を射ることが難しい「弓流し」の逸話がある。
兄弟には腕力差があり、かつ、義経がそれを恥じていたことがわかります。
ではなぜ、そんなことが起きるか?
というと「和弓」だったからとも言えます。
和弓は、腕力と精密な動きが要求されます。
他の文化圏では、もっと扱いが簡単な弓が使われていました。
例えば、アイヌ文化を描いた漫画アニメ『ゴールデンカムイ』に登場する少女アシリパは、弓を使いこなします。
小柄で幼い彼女でも使えるほど、アイヌの弓矢は軽い。
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さらに中国では、古代から「弩」が盛んに使われていました。
「諸葛弩」という連弩は、あの伝説の軍師・諸葛亮が開発または改良したとされるもので、仕掛けを使いこなせば連射もできるほど。
百年戦争前半戦で猛威を振るった、ウェールズとイングランドの長弓については、当時はただの「弓」と呼ばれていたものが、後世「長弓」と呼ばれるようになりました。
ロビン・フッド伝説のイメージ通り、強力な武器です。
それでも持ち味は連射性能であり、貫通力と精度は要求されません。弓兵は武士ほどの鍛錬を積んでいたわけではありません。
こうした弓と比較すると、段違いに扱いの難しい和弓の特性が浮かんできます。
和弓は難しい――だからこそ武士の誇りと結びついてきました。
和弓は大きく強くなる
元々は狩猟目的で使われていた弓。
それは日本も同じで『三国志』「魏志倭人伝」には、短く原始的な弓を用いていたことが記されています。
装飾と改良が進んだのが平安時代中頃から。
それまでの「丸木弓」の外側に、竹を貼り合わせた「伏竹弓」が生まれました。
竹を貼るワケですから、接着剤が重要な役割を果たし、そこには膠(にかわ)が用いられています。
発明当初は破損しやすいという弱点がありましたが、時代の進歩につれて弓の強度も改良。
『鎌倉殿の13人』の舞台となる当時は「三枚打弓」が最先端でした。
前面だけではなく裏表両面を覆ったもので、さらに時代が降って室町時代になると、側面まで囲った「四方竹弓」が登場します。
弓の芯に竹を入れた「弓胎弓」(ひごゆみ)も開発されました。
弓を射るためには、弾力も必要となります。
動物性繊維で補強する場合もありますが、日本では用いられず、弓そのものを長くします。
木を竹で補強し、長くする――そんな改良の過程で、和弓の特性が助長されていくんですね。
長い。
美しい。
命中精度が高い。
連射は難しい。
貫通力がある。
腕力と技術が必要。
そんな取り扱いの難しい弓で、なるべく正確に敵を射抜き、馬上騎射もこなす――かくして源平合戦に向かう時代、弓は非常に高度な技術が要求されるようになっていました。

となると今度は、武士たちも戦場で気になって仕方がない。
「これほど強い矢を射たのは誰であるか?」
それをアピールするためにも、彼らは自分の矢に名前を書き込んだのです。
頼朝の乳母子でありながら挙兵に従わず、【石橋山の戦い】では平家方についた山内首藤経俊。
彼は、後に捕らえられた際、頼朝を射った矢に自身の名前が書いてあったことから、弁明の機会を失っています。
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なぜ、そんな真似をしたのか?と疑問に思いませんでしたか。
そこには武勇の極み「弓術」を誇りとする、武士の気質があったのです。
平安時代から源平合戦の頃までは、弓を持つ勇者が顕彰されてきました。
「弓馬の道」という言葉があるほどで、以下のような武人たちがズラッと並びます。
この「弓馬の道」とは、本来、弓術と馬術という意味ではありません。
騎射(馬に乗った状態で弓を射る)と歩射(馬に乗らずに弓を射る)ことを指しました。
弓を射る技術がそれだけ重視されていたのです。
源平合戦は、日本史上、最も弓術が発達した時代でした。
弓術の興亡、そして弓道として再生
鎌倉時代以降も、弓術の達人がいなかったわけではありません。
しかし徐々に存在感は失われ、弓術を見せる機会は、神事や祭礼に限られてゆきました。
なぜか?
源平合戦の時代が終わり、世の中が平和になると、文化、芸術、娯楽が発達します。
和歌を詠み、蹴鞠を楽しみ、読経に勤しむ――かつて軟弱とされていた技能が重視され、武士たちの憧れる技能も変化していきました。
結果、鍛錬に時間のかかる弓術はどうしても疎遠になる。
太平の世が終わり、再び乱世が訪れた南北朝時代では、弓術の技術が相対的に低下していました。
もちろん使われないわけではありませんが、戦術が変化し、相対的重要性が入れ替わったのです。
南北朝時代から、悪党と呼ばれる集団が登場します。

絵・小久ヒロ
彼らは、弓以外の武器を持ち、集団戦術を駆使。
長柄武器、槍、長巻、打物(打撃武器)で敵を倒すことが発達しました。
悪党の登場。
『孫子』はじめ兵法の普及。
集団戦術の発達。
こうした中で、腕力や技術を駆使した弓術だけが特別視されるわけではなくなったのです。
弓は、銃器の普及により使われなくなったとされます。
それはあくまで要素の一つであり、複合的な要因が絡み合っています。
集団戦術が発達すると、個人単位での弓術賛美傾向は弱くなる。これは日本のみならず、世界各地でみられる現象であり、中世の終焉と重なり合うことが多いものです。
時代が降った戦闘技術を、大河ドラマで振り返ってみましょう。
『麒麟がくる』の序盤、明智 光秀は儒教経典である四書五経を幼くして読みこなしていると語られました。『孫子』を引用する場面もありました。

明智 光秀/wikipediaより引用
主君である斎藤 道三はそんな光秀の知恵を高く評価しています。
明智 光秀と細川 藤孝が、剣術で対峙する場面には、剣術を嗜む将軍・足利 義輝が登場し、両者を称えていました。
弓は使われていないわけではありません。織田 信秀は矢傷が原因で死に至ります。
その一方、松永 久秀や斎藤 道三、そして信秀の子・織田 信長が鉄砲に興味を抱くことで、物語は進んでゆきます。
漢籍由来の兵法と知恵が重視される。
技能は剣術。
合戦での遠距離武器は鉄砲。
弓術の重要性が低くなっているのが一目瞭然です。武士は弓のみならず、さまざまな智勇を研鑽するようになっていました。
たしかに今川 義元と徳川 家康の異名「海道一の弓取り」という言葉には、その名残もありますが、実際に彼らが弓の使い手であったかどうかは別の話でしょう。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
時代がくだり幕末となると、弓術は時代遅れの象徴として語られるほどです。
そして西洋にならう近代化の過程において、真っ先に廃止されてしまいました。
明治以降は旧時代の象徴となっていた弓術――その技術を完全に喪失させないためにも、スポーツであり、鍛錬としての「弓道」が確立されました。
他の武道と同じように、弓術家が保全に動き、段位の制定等を行なったのです。
彼らは、女性にも広く門戸を開きました。
第二次世界大戦後、武道はナショナリズムを醸成するものとして禁じられましたが、解禁後は弓道も復活を遂げ、現代に至ります。
中学高校の弓道部に、比較的女性が多いのも、そうした時代の流れからでしょう。
扱いの難しい弓術が見られる好機
弓術がいかに重要であり、かつ難しかったか。
それを再現していた『鎌倉殿の13人』がいかに大変だったか。
特に、見栄え良くカッコよく矢を放つため、俳優さんたちに課される苦労は相当なものです。
剣(剣道)や馬(乗馬)でしたら、ドラマ以外で接する機会はあれど、本物の弓に触れることはほぼ皆無でしょう。
扱いを間違えたら負傷する可能性もあり、その準備を考えると、例年の大河よりずっと手間がかかります。
装束が重い。甲冑を着ているだけで筋肉痛になる。それに比例して殺陣が危険となる。
畳がない板張りの床を、裸足で歩かねばならない。
馬に乗る場面も多い。
そして弓を引かねばならない。
弓は筋肉に負担がかかるだけじゃなく、弦があらぬ方向に跳ねてしまったり、矢羽で身体をこすってしまったり、本当に大変です。
だからこそ源平合戦における弓矢は武士たちの華となったのでしょう。
彼らは鍛錬を積み、日本史上最高の弓術で戦い抜きました。
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【参考文献】
樋口隆晴/渡辺信吾『図解 武器と甲冑』(→amazon)
松尾牧則『弓道 その歴史と技法』(→amazon)
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』(→amazon)
森村宗冬 『アーチャー 名射手の伝説と弓矢の歴史』(→amazon)
他








