応永6年12月21日(1400年1月17日)は【応永の乱】により守護大名の大内義弘が敗死した日です。
「大内氏」といえば、戦国時代の大内義隆を思い出される方が多いかもしれませんね。
義隆は、親しい部下だったとされる陶晴賢に【大寧寺の変】で殺され、その陶晴賢も【厳島の戦い】で毛利元就相手に敗死。
そして中国エリアは毛利の一強時代となっていくわけですが、そこで滅ぼされるまでの大内家は、同地方でも最大クラスの勢力を誇っておりました。
では、なぜ没落したか?
というと、その理由はこの応永の乱にまで遡れるかもしれません。
当時を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
大内家は渡来人の末裔……じゃない?
大内家は、もともと渡来人の末裔を称している家の一つです。
ただし、同じような伝承がある長宗我部氏ほどハッキリした記録はなく、現在の研究では「たぶん自称だろう」とも目されています。
それでも、古くから周防(現・山口県)に根ざしていたことは間違いないと見られ、大内義弘の父・大内弘世は南北朝時代に南朝方として働いていました。
つまり、当初は室町幕府と敵対関係だったわけです。
しかし、義弘は家督を継ぐ前から幕府への忠誠心があったのか、父に逆らってまで幕府の命令に従ったことがありました。
その態度は早くから認められ、父の死後、弟・大内満弘と家督争いをしたときも三代将軍・足利義満が味方してくれています。
最終的には、家督と領地の大部分を義弘が、石見(現・島根県)を大内満弘が相続することで決着しました。
はじめから話し合いでそうすれば……とも思ってしまいますが、武家ってそんなもんですよね。
後に満弘は豊前(現・福岡)に国替えしており、そのときには揉めていないので、元々話ができる相手だったんじゃないかという気もしますが。
また、大内氏は朝鮮半島との貿易をほぼ独占し、かなりの利益を上げていました。
武力とお金が揃えば、怖いものなんてありません……と言いたいところですけれども、そこで義満との関係がさらに重要になってきます。
義満に帰順した義弘は卑屈なほどの忠誠っぷり
一方、ときの室町幕府は義満が大ナタを振るっている頃でした。
当初の室町幕府は、初代将軍・足利尊氏と弟・足利直義との間で【観応の擾乱】が起きたり、南北朝のドタバタがあったり、鎌倉幕府の初期と比べて権力基盤が弱く、守護大名にナメられがちな状況が続いていました。
これを「何とかすべし!」と動いたのが足利義満。
京都・室町に花の御所を作ったり、将軍の直轄軍である奉公衆を拡大したり、権威の拡大に努めたのです。
義弘はそうした状況の中で、当初から義満に帰順する姿勢を旗幟鮮明にしていました。
例えば、義満が厳島神社参詣のためにやってきたとき、
義弘はお出迎えと随伴をし、さらに帰京時のお供をして上洛し、そのまま在京するという忠実ぶりです。
いささか行き過ぎて卑屈にも見えてしまうほどですよね。
義満にとっても願ったり叶ったりで、以降、義弘を幕府の役職に引き立て、他の強大な守護大名を攻めるときも、重用するようになります。
義弘もこれによく応え、敵将を一騎打ちで破るという派手な武功も挙げたり、領地を増やしてもらいました。
武働きだけでなく、政治的な働きも少なくありません。
例えば、南朝と幕府の折衝を行ったり、国人たちの収入を保証してやったり。
幕府からは大陸方面で悪さをしていた海賊(倭寇)の取り締まりや、高麗・明との貿易も任されており、まさに八面六臂の大活躍でした。
義満との間にできた溝が徐々に
明徳三年(1392年)、山名氏の討伐に加わり、さらには南北朝合一に向けて北朝側の交渉役の一人にもなり、文武両道っぷりを発揮する大内義弘。
その働きを認めた義満は、明徳四年(1393年)12月、義弘を将軍家に準じる扱いに格上げし、義弘も変わらず忠誠を誓いました。
応永二年(1395年)に義満が出家した際には、義弘も頭を丸めるほどです。
どこからどうみても「改革を進める主とその忠実な部下」という感じですよね。
しかし……。
同じ応永二年、九州探題の今川了俊が失脚し、義弘が朝鮮半島貿易のほとんどを独占すると、義満も笑顔ではいられなくなってきます。
この頃になると義弘は朝鮮側に対して「ウチの先祖はそっちの出身なので、ウチに朝鮮の土地をよこせ」とまで言っていたようなので、外交問題を危惧した面もあったかもしれません。
義満も対明貿易を考え、明との交渉を始めていたので、その主導権を幕府が握りたいという狙いもあったでしょう。
さらに義満が北山第(現在の金閣寺)造営のため、諸大名に工事の人手を出すよう命じた際、
義弘がただ一人反対したことから、何やら良からぬ空気が漂い始めるのです。
と、そこで事件が起きます。
応永三年(1396年)、渋川満頼が九州探題に就任すると、これに反発した少弐氏と菊池氏が挙兵。
幕府は大内氏と大友氏に渋川満頼の援助を命じ、両氏とも兵を出しましたが、応永四年(1397年)の末に義弘の弟・満弘が討死してしまいました。
にもかかわらず見返りがなかったことで、義弘は不満を抱き始めます。
しかも、この件は長引き、応永五年(1398年)には義弘が自ら和泉から九州へ向かい、九州滞在は翌応永六年(1399年)10月まで続きました。
満頼の援護だけでなく、この間は倭寇の討伐や朝鮮との交渉もしていたらしいので、かなり多忙だったようです。
同時に義満は、
・義弘に謀反を起こさせて討伐するため
動き始めます。
実行に移す前から「義満が義弘を討つのでは」という噂も立っていたようです。
応永六年4月、義弘と親密な関白・二条師嗣を義満が失脚させていたので、そういった噂が立つのも無理はありません。
また「義満が少弐家をけしかけて大内家を弱めようとしている」という噂もあったようです。
この動きは九州在陣中の義弘にも届いていたようで、帰国後に義満が上洛を催促してきても、なかなか応じようとしませんでした。
彼は明徳の乱を間近に見たばかりですから「地元を留守にしたことでつけこまれるかもしれない」と警戒していたのでしょう。
一方で「場合によっては実力行使もやむなし」とも思っていたようで、当時義満と対立していた鎌倉公方・足利満兼と密かに連絡を取っていました。
※続きは【次のページへ】をclick!