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【大内義弘と応永の乱】
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畠山軍相手に玉砕して敗死
義満は、細川満元・京極高詮・赤松義則らを先陣として、11月8日に和泉へ向かわせます。
同時に自身は、管領の畠山基国・斯波義将らを率いて、自らも出陣する姿を見せつけました。
一方、義弘は、堺に櫓(やぐら)などを設けて防衛力を高め、籠城戦の構えを取ります。
この時点で腹を決めていたのでしょう。
歌会を開いたり、地元に残した弟・盛見に連絡したりしながら、そして迎えた11月29日、ついに大内軍vs幕府軍の戦闘が始まりました。
しかし、すぐには決着がつきません。
関東では義弘に味方した足利満兼が各地へ挙兵を呼びかけ、美濃・丹波・近江などで兵を挙げた者がいました。
彼らは幕府方に各個撃破されてしまい、満兼は自ら出陣しようとしたところで、関東管領・上杉憲定に止められて西に行けずに終わります。
ちなみに憲定は南北朝時代に活躍した上杉憲顕の孫です。憲顕が足利尊氏のいとこなので、かなり遠いながらに満兼や義満とも血縁関係ということになりますね。
「上杉氏の人が無茶苦茶をやらかす鎌倉公方をどうにか止めようとする」
という場面が頻発します。
上杉氏というとやはり戦国時代の上杉謙信を想起しやすいですが、室町時代中は「主君に振り回されまくる苦労人の家」といった感がありますね。
また、別行動で動いていた宮田軍は丹波から京都に入り、義満のいる幕府軍本陣を目指しました。
これにより、一時は大内方が幕府軍を挟撃できる状況になったのですが……結果として大内方が敗れ、義弘は12月21日に幕府方の畠山軍相手に玉砕して敗死。
残された弟の大内弘茂は降伏を選びました。
ちなみに関東から動けずにいた足利満兼も、義弘が敗死したことを知って引き返しています。
実害がなかったためか、幕府からのお咎めもなく済んでいます。
この後、勃発する【上杉禅秀の乱】【永享の乱】【享徳の乱】などにより、幕府と鎌倉公方、そして関東の統治は大混乱に陥りますが、それはまた別のお話。
大内氏は戦国時代まで存続
義満は弘茂の降伏を受け入れ、大内家の家督と周防・長門を安堵しました。
しかし、地元に残されていた義弘のもう一人の弟・盛見が
「俺が留守を任されたんだから次の当主は俺でしょ!」
と言い出し、弘茂と盛見の間で戦が起きてしまいます。
結果的に盛見が勝利したので、幕府も彼に周防・長門を安堵せざるを得なくなりました。
義満の目的だった「大内氏の勢力削減」「対明貿易の主導権を幕府が握る」ことは達成されましたが、盛見を認めざるを得なかったことは不快だったでしょうね。
文字通り骨肉の争いに終止符を打った後の盛見は、義弘の菩提を弔うために瑠璃光寺( るりこうじ)五重塔を建立します。
おそらく、義弘と弟たちの関係は悪くなかったのでしょう。
現在、これは大内家の文化を象徴するものとして、国宝になっています。
大内家はその後もたびたび家督争いを起こすものの持ち直し、応仁の乱でも一大勢力として登場します。
大陸との貿易でも大きな利益を上げて豊かになり、京がいろんな意味でボロボロになってからは、多くの公家が大内家の庇護を求めてやってきたほどです。
戦国時代にザビエルが立ち寄り、日本で最初に眼鏡をかけたのも大内義隆でした。
まあ、その後に義隆とダメダメな仲間たちが痴情のもつれやアレコレやった末、毛利元就に滅ぼされてしまうんですが。
義弘が詳しい経緯を知ったら「この軟弱者がッ!!!」とブチ切れそうです。
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長月 七紀・記
【参考】
渡邊大門『戦乱と政変の室町時代』(→amazon)
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
国史大辞典