1552年12月3日、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが中国大陸で亡くなりました。
「日本に来たはずなのになんで中国よ?」と思われた方、ごもっともです。
そこにはザビエル一生一代の盛大な勘違いが隠されていました。
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インドのゴアを経由してマレーシアへ
ザビエルが生まれたのは1506年4月7日。
父はスペイン併合前にあったナバーラ王国という国の貴族で、母も名門の出自です。
その6番目の子供として生まれたザビエルは1525年、19歳でパリ大学の聖バルブ学院へ入学しました。
このときの学友や先輩に感化されながら学び、1534年にイエズス会を創立します。
ザビエルが東洋に来たきっかけは、ポルトガル王・ジョアン3世の依頼でした。
彼が所属していたイエズス会に「植民地でもキリスト教徒を増やしたいんだけど、行ってきてくれない?」という、当時の交通事情からするとかなりハチャメチャな話でした。
しかしイエズス会自体が「世界中にスンバラスィ神様の教えを!」というモットーを掲げていたので、会はこれを引き受けます。
そしてザビエル一行は約1年の航海を経て、当時ポルトガル領だったインド・ゴアの街に降り立ったのでした。
ちなみにリスボンを出航した日はちょうどザビエル35歳の誕生日で、無事に着けて何よりですね。
1549年に鹿児島上陸
ザビエル一行はインドやマレーシアあたりで布教を進めました。
が、まったくうまくいきません。
現地での異教徒に対する風当たりは厳しく、イスラム教徒の抵抗などもあります。
また、ポルトガル王に頼まれて向かったのに、そのポルトガル軍から協力を得られないなどの苦境もあり、どうにもならなくなってしまいます。
そんな最中に出会ったのが日本人のヤジロウ(アンジロー)という人物でした。
ヤジロウ(アンジロー)は人格者で知識も豊かだったようで。さらに友人ジョルジ・アルバレスの書いた『日本記』を読んで、ザビエルは動かされます。
日本には国王がいて、さらには大学もある。そう聞いて説得できると思ったのか。
「東洋での布教は日本しかない!」
あれこれを聞いたザビエルは、「そこでも神の教えを広めたい」と使命感に燃え、またも渡航を決意したのです。
当時で既に40歳だというのに元気な御方ですね。
ザビエルは、ヤジロウ(アンジロー)を案内役とし、1549年4月にゴアを出発すると、マラッカで中国船に乗り換え、1549年8月15日(天文18年7月22日)に鹿児島へ上陸。
島津四兄弟の父である島津貴久に布教の許可を得て、上洛のお手伝いの約束まで取り付けました。
まずは大成功といったところでしょう。
「男色イケマセーン! 地獄に落ちマース」
ザビエルは早速、薩摩で布教をはじめました。
しかし、仏教の僧侶からの激しい抵抗に遭うばかりか、貿易の旨味が少ないことを悟った島津貴久にも嫌われ、間もなく鹿児島を後にします。
次に向かった平戸では地元の大名・松浦隆信に布教の許可を得て、ここではボチボチ成功すると、別の者に任せて博多へ向かい、さらに周防の山口へと進みます。
しかし、後に陶晴賢によって自害へ追い込まれる大内義隆に、あっけなく追い出されてしまいました。
その理由がまた
というものだったので……まぁ、宗教文化風習の違いは仕方ないですね。
その後は1551年、天皇と将軍に会うため、京までやってきます。
しかし、わけのわからん姿をしている上「神の教えが云々」とのたまうザビエルを、朝廷も幕府もすんなり通してはくれません。
当時の天皇は後奈良天皇で、将軍は足利義輝でした。
後奈良天皇は京と民の復興を願って般若心経を自ら写経したり、伊勢神宮へ詣でるなど神仏への信仰がとても篤い方だったので、たぶん周りの人が気を利かせたのでしょう。
義輝はこの頃将軍職にはついていたものの、まだ京に腰を落ち着ける前だったので、そもそも京の市街にいなかった可能性もあります。
実にタイミングの悪いときに来たものです。
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