ザビエル

ザビエル/wikipediaより引用

宣教師・切支丹

日本にキリスト教を伝えた宣教師ザビエル その後どこへ消えたかご存知ですか?

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ザビエル
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望遠鏡やメガネを進呈したら大内義隆の態度が一転

どちらにも会えない!

それを悟ったザビエルは京を去りました。

そこで、いったん平戸へリターン。

「土産物をたっぷり持っていけば、大内サンも布教を許してくれるかも」と思い立ち、荷物の中から西洋の文物をあれこれ引っ張り出します。

これが見事に当たり、初めて見る望遠鏡や置時計、ポルトガルのお酒、眼鏡などに大内義隆はホックホク。

以前キレたことも忘れて「ウチの領内は布教オッケー♪」とあっさり許可を出してしまいます。

現金すぎますね、大内さん。

大内義隆/wikipediaより引用

ザビエルもはりきって連日教えを説き、周防(山口県)で500人もの信者を獲得することができました。

豊後(大分県)にも行き、大友宗麟へもキリスト教を伝えています。

そして大友家も後々滅亡の危機にさらされるのでした。

大内家といい島原の乱といい、なんか日本でキリスト教が広まるとロクなことがないような……。

 


次は中国で布教だ! と意気揚々と出たものの……

何とか神の教えを広めようと頑張るザビエルには、一つ気がかりなことがありました。

インドに残してきた人々から連絡が来ないのです。

後世からすれば「そりゃアンタ、二年の間に薩摩→周防→京→周防→豊後なんて大移動してたら連絡の取りようがないだろうよ……」とツッコみたくなりますが、残念ながら当時彼に指摘した人はおりません。

同時に日本での布教が予想以上にうまくいかないことに対し、何らかの策を打たなければと考えます。

そこでザビエルが思いついたのが中国への布教。

「日本人や日本文化は中国からの影響が強いそうデース。ならば、中国を神の教えでいっぱいにすれば、日本人もマネするはずデース! ワタシ頭イイネ!」

そう考え、今度は中国への渡航を決意するのです。

そしてやはり誰も止める人がいなかったため、一旦インド・ゴアに戻り(1552年2月)、マカオ付近から中国(当時は明)へ入ろうと試みました。

しかし、外見の違いからか言葉の壁か、手続きに手間取っている間に病気で亡くなってしまいます。

享年47でした。

 


色々な勘違いがザビエルをビッグにした?

ザビエルが日本に滞在していた期間は全部で2年3ヶ月。

キリスト教への改宗者は1,000人にも満たない少数でしたが、

「文化や礼儀はスペイン人より優秀」

「日本人ほど理性的な人を世界で見たことはない」

という手紙をポルトガルへ送っています。

しかし、これに関しては手放しで受け取れないような気もします。

宣教師は他にも多くおります。

ザビエルやフロイスのように日本アゲする人もいれば、ボロクソ言う人もおりました。

戦国時代の外国人宣教師
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日本に戻ってもう一度布教したい――というザビエルが、ここで「日本人はキリスト教を理解する素養はない」とは言わないでしょう。

それに当時は戦国時代であり、戦場での人さらいが横行し、人身売買が盛んに行われていたことを2年3ヶ月も滞在していて知らないはずがありません。

後に、他ならぬポルトガル商人が、マカオを拠点に日本人の奴隷売買で巨利を得ています。

日本にもう一度戻っても、ザビエルの思考では、布教活動が成功したかどうか不明です。

なんせ彼は「日本文化のおおもとは中国にあって、ゆえに中国で布教を成功すれば、日本でもイケる!」と考えていたのです。

確かに中国の存在は大きいものでしたが、日本も長いこと独自路線を歩んでいて、大陸でのノウハウがそのまま流用できる可能性は低かったのではないでしょうか。

ザビエルは死後、遺体をゴアに埋められ(当初は中国の上川島で埋葬)、1622年に教皇グレゴリウス15世によって「聖人」に列せられ、1904年には

【世界の伝道事業の保護者】

として祝福されています。

なんだか色々な勘違いがザビエルの名を高めた気がしないでもないですが、そのパワフルな行動力はやっぱり偉人であるなぁとも思わされるのです。


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【参考】
国史大辞典
フランシスコ・ザビエル/wikipedia

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