大内義弘と応永の乱

大内義弘の父・大内弘世の像

源平・鎌倉・室町

蜜月関係だった義満を相手に大内義弘が挙兵! なぜ応永の乱は起きたのか?

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鎌倉公方・足利満兼

ここで、鎌倉公方・足利満兼がなぜこの件に関係してくるのかをみていきましょう。

鎌倉公方は室町幕府が関東を治めるために設置した役所で、そのトップである鎌倉公方は足利将軍家の親族です。

しかし、親族であるがゆえに、世代が下るごとに将軍への敵愾心も強めていました。

特に満兼の父・氏満は幕府に反感を抱いており、関東だけでなく幕府中枢にも食い込もうとしていたためです。

とはいえ互いに荒っぽい手段までは用いていません。

すると応永五年(1398年)、氏満が亡くなり、満兼が跡を継ぎました。

満兼は伊豆の寺社領の問題などで義満と激しく対立。

大内義弘はこれらの経緯を知って、満兼を引き込もうと考えたようです。

そもそも鎌倉公方が将軍に楯突くのは「ウチも足利一門なんですけど!」という理由です。将軍家に男子がいなかった場合は将軍の地位が回ってくる可能性もありました。

つまり他の大名が鎌倉公方を担ぎ上げて将軍にしても問題ないということになる――そんなわけで、義弘と満兼は将軍を挟撃すべく機会をうかがっていたのです。

とはいえ、挟撃作戦をやるには距離が離れすぎています。遠交近攻は戦略のセオリーでもありますが、日本史上このくらい離れているケースだとほぼうまく行きません。

『洛中洛外図屏風』に描かれた花の御所こと室町殿/wikipediaより引用

南北朝時代の混乱然り、(確定ではありませんが)関ヶ原の戦い前夜の石田三成直江兼続然り。

こうしてデカイ味方を引き入れた義弘は九死に一生をかけて、兵を挙げる決意を固めました。

「謀反起こしたら結局同じじゃないか」とツッコミたくなってきますが、義弘としては意地を見せて義満の譲歩を引き出したかったのでしょうかね。

なんだか鎌倉時代の【和田義盛の乱】を思い起こさせるような、そうでもないような。

 


応永の乱、勃発!

こうして応永六年(1399年)10月、義弘は自領である和泉の堺(大阪府堺市)に上陸。

義満の動向について諸々の批判を述べ、兵を挙げました。

応永の乱の始まりです。

批判の内容は

・義満が少弐氏と菊池氏に通じ義弘の討伐を命じたこと

・明徳の乱の恩賞である紀伊・和泉を取り上げようとしていること

・戦死した満弘の分の恩賞がなかったこと

・義満が義弘討伐を計画しているという噂を聞いたこと

などでした。

最初の二つはともかく、後の二つは事実なのですから、そりゃ背きたくもなろうというものです。

これに対し、義満は10月27日に義弘の真意を問い質すため、禅僧・絶海中津を遣わしました。

その裏で西国や九州の豪族たちに義弘討伐へ協力するよう求めているので、黒いどころじゃありません。

伊勢の北畠氏がこの中に含まれており、そこから奈良の興福寺にまで声がかかったそうです。

興福寺五重塔

もう許す気は全くないですね。

義弘もこうした義満の動きに気づいていたのか説得を聞こうとせず、

「鎌倉公方(足利満兼)と連携して義満を諫める。来月頭には二人で上洛する予定だ」

とまで言っていたとか。

この”上洛”が進軍と同義であることは明白です。

また、

丹波:宮田時清

美濃:土岐詮直

近江:京極秀光

などが大内方に協力を表明していたため、義弘にも相応の勝算があったのかもしれません。

このうち宮田時清は、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の子、土岐詮直も以前「土岐康行の乱」で義満に没落させられていた人です。

また、大内氏の地元である安芸でも義弘に味方する者がいましたし、楠木正勝も大内方についています。楠木正成の孫ですね。

楠木正勝/wikipediaより引用

父・正儀が比較的温厚で交友関係が広く、さらに一時は北朝方についていたこともあって、南北朝合一の際に義弘とのパイプを作っていたようです。

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