北条夫人(勝頼の妻)

北条夫人と武田勝頼/wikipediaより引用

武田・上杉家

北条夫人(勝頼の妻)の生涯|武田と北条の狭間で苦しみ 最期は夫と子と共に自害

2025/03/11

2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、武田家の滅亡も描かれました。

わずかなお供を引き連れ、戦場に散った武田勝頼。

槍を構え、大軍を相手に一歩も引かない姿は勇ましく映ったかもしれませんが、同時に違和感を覚えた戦国ファンの方もいらっしゃるでしょう。

勝頼は、その最期のとき、妻と子を連れていました。

子とは前妻が産んだ長男の武田信勝であり、妻とは北条夫人(法号:桂林院殿本渓宗光)。

北条氏康の娘である彼女はまだ19歳であり、子もなく、あらためて嫁ぐことのできる若さだったのに、実家の相模へ帰ることなく、夫らと共に散ることを選んだのです。

天正10年(1582年)3月11日はその命日。

なぜ彼女はそんな最期を迎えることになったのか。

北条夫人/wikipediaより引用

北条夫人の生涯を振り返ってみましょう。

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勝頼最初の妻は織田から

数多の戦国大名の子息がそうであるように、武田勝頼の婚姻は政治情勢ありきでした。

勝頼が青年期だった頃の父・武田信玄は他国にその名を轟かせるような非常に強大な存在。

このとき和睦の必要性をひしひしと感じていたのが尾張の織田信長です。

そこで信長から持ち込まれた縁談を受け、最初に勝頼が娶った妻が6歳下の遠山夫人(法号:龍勝院)でした。

血縁上は信長の姪だった彼女は、永禄8年(1565年)に名目的には信長養女として嫁いできます。

しかし、彼女は永禄10年(1567年)に男児を産むと、その4年後の元亀2年(1571年)に亡くなってしまいます。

この男児が後の武田信勝。

武田信勝/wikipediaより引用

織田の血も引く武田家のご子息となりますが、この後、信長は武田との縁談を続ける必要がなくなります。

元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄が没したからです。

両国は対立構造を深めてゆき、そして迎えた天正3年(1575年)5月21日に【長篠の戦い】が勃発。

織田徳川連合軍は強敵・武田を相手に大勝利をおさめ、もはや以前のように恐ろしい存在ではなくなりました。

こうなると武田勝頼としても別の同盟者から妻を探さねばなりません。

候補に挙がったのは関東の雄・北条氏でした。

 


武田と北条を結ぶ姻戚関係

甲斐の武田と、相模の北条は、距離が近いだけに関係は非常に複雑で、同盟と決裂を繰り返してきました。

例えば天文10年(1541年)には当時晴信だった武田信玄が父の武田信虎を駿河へ追いやり、武田と北条の間で和睦が結ばれます。

天文13年(1544年)頃には武田・北条の間で【甲相同盟】を締結。

この同盟に際しては、信玄の娘である黄梅院と、氏康の嫡男・北条氏政で婚姻が結ばれ、両国の繋がりはより強固なものとなりました。

北条氏政/wikipediaより引用

一方で北条は、今川と数代にわたる姻戚関係を結んでいます。

結果、武田・北条・今川による【甲相駿三国同盟】へと発展するのですが、そのパワーバランスを崩したのも織田でした。

永禄3年(1560年)に「東海一の弓取り」として知られた今川義元が【桶狭間の戦い】で信長に討たれ、今川家が一気に弱体化してしまうのです。

今川家当主を継いだ氏真は、今川領の混乱を収拾できませんでした。

祖母・寿桂尼の働きでどうにか国としての体裁は保つものの、彼女が亡くなるといよいよ信玄は決断。

今川領への侵攻を開始するのです。

しかし、事はそう単純でもありません。

今川氏真の正室は北条氏康の娘である早川殿です。

早川殿/wikipediaより引用

氏康は娘の嫁ぎ先である今川救援のために出兵し、武田信玄と激突、ここに同盟は決裂を迎えます。

その煽りを受けたのが、信玄の娘である黄梅院でした。

彼女は夫との間に北条氏直をはじめとする4人の子が生まれていましたが、永禄12年(1569年)に子どもたちを相模へ残し、甲斐へ戻ることになったのです。

しかも、その年のうちに彼女は没したとされます。享年27。

現在では、離縁はされてはおらず、小田原城内に止まり、その地で没したという説もあります。

いずれにせよ、武田と北条の同盟は締結と破綻を繰り返しており、黄梅院の死から2年後の元亀2年(1571年)になると、武田信玄と北条氏政との間で再び甲相同盟が結ばれました。

ところが……。

今度は、そこの2年後に信玄が没してしまい、織田の脅威をひしひしと感じる勝頼にとって、この同盟締結強化は重要課題となってきます。

平たくいえば自身の妻を北条から迎えることが最善の策であったのです。そして……。

 

北条夫人が勝頼に輿入れ

天正5年(1577年)、甲相同盟の証として、北条氏康の六女である北条夫人が武田へ嫁いできました。

夫の勝頼が32歳であるのに対し、永禄7年(1564年)生まれの彼女は14歳。

【長篠の戦い】以来、重苦しい空気が満ちていた甲斐武田の領民にとって、救いの光となるような婚姻です。

しかし、穏やかな日々は続きません。

武田をめぐる事態は急速に悪化してしまいます。

それは天正6年(1578年)のこと。

越後の上杉謙信が後継者を定めぬまま没すると、後継者争いである【御館の乱】が勃発します。

同盟相手である北条氏政は、弟であり、謙信の養子であった上杉景虎の支持を勝頼にも要請します。北条夫人にとっては兄にあたる人物です。

しかし、この景虎に利あらずとなると、勝頼は敵であったはずの上杉景勝支持に方針を転換し、【甲越同盟】を結びます。

上杉景勝/wikipediaより引用

このあと景虎が敗れて自害すると、天正7年(1579年)、武田と北条の【甲相同盟】は破棄されたのです。

しかし、その後も北条夫人は実家へ戻ることなく、夫のそばにいました。

北条夫人は、武田八幡に祈りを捧げました。卑劣な裏切りに傷つきながらも、勝頼をどうか守って欲しいと願っていたのです。

北条夫人は勝頼の妻として、武田を守ろうとしていました。

彼女自身に子はできなかったものの、勝頼の子である信勝を育てでいたのです。母と子というよりも、姉と弟といえるような歳の差でした。

斜陽の武田に対し、織田と徳川は力を伸ばしてゆきます。その対策は急務です。

武田の本城である躑躅ヶ崎館も、その詰城である要害山城も、鉄砲による戦闘を考慮すると弱点を抱えています。

そこで新たなる防衛拠点として、七里岩台地に新府城を築き、天正9年(1581年)末、勝頼夫妻はこの城に入りました。

 

夫と子と共に武田に殉じる

天正10年(1582年)2月、運命の年が訪れます。

信長の嫡男・織田信忠を中心とする織田徳川連合軍が武田の本拠地である甲斐へ攻め込んできたのです。

織田信忠/wikipediaより引用

俗に【甲州征伐】とも呼ばれ、勝頼を追い込むための大軍を前に、武田は為す術なく敗退を重ねます。

戦場から逃げ出す者。

裏切って織田につく者。

他国から畏怖された武田軍はそこに無く、勝頼は妻子を引き連れ、新府城を出るほかありません。

僅かな将兵と侍女と共に逃げる一行は、田野(山梨県甲州市)へ逃げ落ちます。

北条夫人は一心不乱に祈り、逆転するよう願いました。

が、それは叶わぬ祈りでした。

ついに織田勢に追いつかれたとき、勝頼は夫人を逃そうとします。相模の北条へ向かえば助かる、と若い妻を諭したのですが……。

「仲睦まじいけれど、子宝には恵まれなかった」とも記述されている二人。

北条夫人は断固として別れを拒むと、懐剣で我が身を貫き、命を落としたのです。

享年19。

そして夫の勝頼も、我が子のように愛育していた武田信勝も、武田滅亡と共に命を落としました。

悲運の三人は、現在も残る肖像画の中で、在りし日の姿を見せています。

北条夫人と武田勝頼、そして武田信勝の肖像画/wikipediaより引用

天正11年(1583年)、彼女は死して北条へ。

兄の北条氏規が妹を弔い、桂林院殿本渓宗光という法名がつけられました。

生き延びた勝頼の男児は出家し、甲斐の武田家は滅び、しかし伝説的な強さは人々の記憶や物語になって残されます。

滅びゆく夫の家から離れることなく、殉じた北条夫人はその凄絶な最期を残したのでした。

花のようにしとやかで香り高く、己の生き方を伝えた女性として、歴史にその芳名が残されています。

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【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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