2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、木曽義仲の息子・木曽義高(市川染五郎さん)の美童っぷりが話題になりました。
あるいは畠山重忠(中川大志さん)が「男前だから」という理由で鎌倉入りの先頭に立たされたケースもありました。
イケメン賛美!
イケメン最強!
こうした描き方は、昨今、世界中で注目されている
「ルッキズム(人を外見で判断する)」
からすると、おかしくないか? ドラマの倫理観はどうなっているんだ? という印象を与えたかもしれません。
しかし当時は、こうした考え方が主流であり、同時に問題視されつつある過渡期でもあったのです。
では、人はいつからイケメン最強でもなくなったか?
如何にして判断基準の多様性が広まったのか?
当時の状況を振り返ってみましょう。

お隣中国では美顔から頭脳へ
まずは比較のため、お隣中国について少々触れてみたいと思います。
『三国志』の英雄である曹操は、こう言われてきました。
「曹操は英雄とはいうものの、容姿は貧相で、コンプレックスがあったんだって。異国から使者が来たら、替え玉を使ったこともあったというよ」
当時はまだ人の評価基準が不明瞭で選択肢がなかったので、漢代の役人は美男が優遇される、露骨な顔採用がありました。

他者の能力を重んじた曹操は、乱世においてそんなルッキズムを打破したようでいながら、周囲からは容姿をジャッジされていたのです。
彼やその子や孫が生きていた魏晋時代は中国史上最もルッキズムが激しく、表舞台にイケメンが多い時代とされています。
しかし時代が降りますと、同じような偉人のギャップでも、こう語られます。
「文徴明は“四絶”、すなわち詩、文、書、画に才能を発揮した偉大な人物です。それなのに何度科挙を受けても落第しっぱなしだったんですよ」
科挙――この試験制度ができて以来、中国のエリートは見た目よりも、まずは「科挙に合格できたかどうか?」で判断されるようになりました。
いくら才能がある人物でも、落第を続けたら「残念な人」扱いをされてしまう。
判断基準が実力、試験結果になったということですね。
前置きが長くなり失礼しました。
それでは中世の日本では、人の判断基準はどうな風に培われたのか?
というと、こちらも明確な価値観は確立されておらず、特に坂東武士ともなればルッキズム禁忌なんてどこ吹く風とばかりに容姿が話題になりました。
前述のように『鎌倉殿の13人』でも特徴的なシーンがありましたね。

木曽義高(『武者鑑一名人相合南伝二 清水冠者義高』/wikipediaより引用)
討ち取った木曽義仲が美男であったかどうか、源頼朝が尋ねる場面。
こうした表現が多いのも、当時ならではの価値観と言えるのです。
ではなぜ、中世の人々にとって容姿は重要だったのか。
ともかく見た目が重要だった中世
平安~鎌倉期の日本において、ルッキズムについて疑問を投げかけたら、むしろ怪訝な顔をされたことでしょう。
代表作品である『源氏物語』にせよ『枕草子』にせよ、美形であることが重視されています。
例えば以下の記述などがそうです。
説経の講師は顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたふとさもおぼゆれ。
【意訳】説教をするお坊さんはやっぱりイケメンでしょ。イケメンだからこそ、トークの中身も聞く気がでるよね。
『枕草子』第三十段
いかにありがたいお説教だろうが、イケメンでないと聞く気が起きない――そんな心理が素直にあらわれています。
僧侶側もそうした事情を意識していたのでしょう。
見目麗しい少年を確保し、行事に並べることがステータスシンボルになっています。

ゆえに京都の朝廷では、武士にも同様の要素を求めました。
ズラリと居並ぶボディガードはイケメンであった方が断然いい!
顔採用はむしろ当然であり、さらには、そこから深い仲に発展する事例もありました。
木曽義仲の父であり、源頼朝にとっては叔父にあたる源義賢は、仕えていた藤原頼長との関係が、頼長の日記『台記』に記されています。
そんな京都育ちの源頼朝がルッキズムを重視することは自然なことでしょう。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもこんな会話がありました。
「あいつ(畠山重忠)はイケメンだな。先頭に立たせるか」
「あの爺さん(千葉常胤)は見栄えが悪い。目立たないところに置いとくか」
若く美男子とされる畠山重忠が重用される一方、年配の千葉常胤が目立つ役目から外され、悔しそうにする場面ですね。

鵯越えで馬を背負う畠山重忠/wikipediaより引用
現代人からすれば、見ていて心苦しいものがありましたが、当時の状況を考えればルックスに関するトークが出てくるのも自然なことです。
イケメンの武士を従えていれば自身の評価もあがる。となれば頼朝が顔採用をすることは普通のことでした。
むろん、そうした風潮は、悪しき面もあります。
見た目が悪い者を笑う。老人がよろめく様を馬鹿にする。イベントでウケ狙いのため老人を集めて皆で笑いものにする。
現代であれば炎上しそうな残酷なことも平気でまかり通っていたのです。
当時は美形であったり、名門出身であるということは「前世の行いが良かったことの証」とされました。
悪ければその逆。
それゆえ、先天性の要素を評価し、一方で誰かを笑い者にすることに対して罪悪感が生じにくかったのです。
しかし、そんな傾向も徐々に変わってゆくのがこの時代の特徴でもあります。
トークスキルに悩む坂東武者たち
現代人は面接において、見た目のみならず、話し方も審判されますね。
同じことは鎌倉の御家人にもあてはまりました。
声がシッカリしているか。
話し方が明確明瞭であるか。
外見だけでなく、こうした評価も中世にありました。
『鎌倉殿の13人』にも、発声が巧みな人物がいますね。
僧侶である義円です。
彼は朗々たる声音で和歌を詠み、周囲を感心させていました。
※以下は「義円」の関連記事となります
-

なぜ義経の同母兄・義円は「墨俣川の戦い」で呆気なく討死したのか
続きを見る
義円が和歌を詠む場面は、独特の節回しでしたが、現在でも百人一首を読み上げるときには独特の節回しをします。
こうした発声による判断基準が坂東に持ち込まれたのも、鎌倉時代という武士の世の草創期です。
なぜ声まで重視されたのか?
坂東武者たちは所領をめぐり、時には暴力沙汰におよぶ争いを繰り返してきました。
たとえば【曽我兄弟の仇討ち】も、伊豆国の武士同士で所領争いが勃発。

曽我兄弟/wikipediaより引用
争いの最中、兄弟の父・河津祐泰が、工藤祐経に殺害されたことが発端となりました。
しかし、いちいち所領争いで流血沙汰になっていてはキリがない。
そこで用いられたのが訴訟という解決手段です。
文書を提出し、審理は口頭で行う――それが鎌倉にも持ち込まれ、随分と進歩したようでいて、困惑する坂東武者も現れました。
口下手で、緊張してしまう。うまく話せない。
武士というのは「弓馬の道」を極めればよかったはずなのに、文書を作り読み上げるなんて無理だ! そんな世の中についていけない!
こうしたストレスから、暴発してしまう坂東武者もいたのですね。
ドラマには登場しなかった人気の武将・熊谷直実もその一人ですので、一例を挙げてみましょう。

熊谷直実/wikipediaより引用
建久3年(1192年)、頼朝の前で久下直光との訴訟に挑んだ直実は、うまく受け答えができませんでした。
あまりの屈辱に、直実は「梶原景時の裏工作があったにちがいない!」と邪推して激怒。
景時は不運としか言いようがありませんが、彼のように弁の立つ切れ者は、嫉妬混じりの敵意にさらされることがあったのでしょう。
明瞭な基準もない。
道理ではなく口のうまさで評価されるなんておかしい。
こんな不満が渦巻く御家人たちのトラブルを解決するためには、北条泰時の登場を待たねばなりません。
泰時はこうした訴訟の場において、声音や口のうまさでなく「道理が通っているかどうか」に興味津々でした。
道理が通った訴訟を聞くと、思わず感動して涙すら流してしまう。
そんな泰時をみて、御家人たちは「嗚呼、なんて素晴らしい人なのか」と感心していました。

北条泰時/wikipediaより引用
道理で考える泰時は集大成ともいえる「御成敗式目」を制定します。
見た目じゃない、口のうまさじゃない、道理で物事を解決しよう。
泰時の時代に、武士はそこまで進歩したのです。
ルッキズムは進歩と共に消えてゆく
なぜ、そもそもルッキズムがあったのか?
容姿以外による裁量基準がなかったからでしょう。
その証拠に、ルッキズムは人を判断する基準の進歩・多様化と共に衰退してゆきます。
『鎌倉殿の13人』は、見た目以外の判断基準が延びゆく時代の物語でもあります。
では、判断の多様化とは?
いくつか具体例を見て参りましょう。
◆文筆=教養
京都から来た文官である大江広元は、武芸でも見た目でもなく、教養が評価されました。
彼は京都にいたころ、明経生(明経道=儒学研究学科)であり、その中でも優秀な「明経得業生」に選抜されています。
大江広元のような文人下級貴族にとっては、任官されるには得業生になることは重要でした。

大江広元/Wikipediaより引用
広元自身は「文士」と呼ばれていたものの、子孫の代には「武士」とされてゆきます。
京都由来の教養が武士の中に溶け合い、求められるようになっていったのです。
梶原景時のように、文筆を得意とする武士の評価がなされるようになってゆきます。そうなると武士たちも学問と教養を身につけるようになってゆくのです。
さらに鎌倉御家人のステータスシンボルとして「うまい和歌を詠むこと」が加わるようになります。
◆信仰心
源平合戦や幕府内の粛清を経て、武士たちは疲弊してゆきます。
彼らは神仏に救いを求め、厳かな宗教行事を行うようになりました。
寺に寄進する。
仏事を行う。
仏像を祀る。
そんな信仰心のあらわれが「徳の高い人だ」と敬意を集めるようになってゆきます。
◆ブランドとファッション
鎌倉からはしばしば海を越えてきた、宋や元の陶磁器が発掘されます。
時代がくだるにつれ、服装も華美になってゆきました。
平氏と戦っていた頃は「あんなチャラチャラした連中と俺らはちがうぜ!」と張り切っていた坂東武者たち。
しかし時代とともにブランド品やファッションで評価がされるようになっていったのです。

青磁(北宋汝窯青瓷無紋水仙盆)/wikipediaより引用
「うちにもそろそろ唐物(中国製品)の食器が欲しいなぁ〜」
こんな意識になっていったのですね。
今も鎌倉の浜辺では青磁のかけらを拾うこともできるといいます。
◆青磁鉢/神奈川県鎌倉市大町衣張山出土(→link)
こうなってくると「見た目だけで判断するなんてもう古いよな!」と変遷していく状況がご理解いただけるでしょう。
私には能力がある。才能がある。だから、見た目のことは言わないでください。貶されることは当然嫌だし、褒めるにせよ、それは何か違うでしょ――と、そういった主張は、何も現代のアスリートが始めたことではありません。
同じことを鎌倉時代の御家人に聞いてみても、納得してもらえるのではないでしょうか。
親の頃はそういう時代だから、見た目のことをああだこうだ言われたけど、自分達の時代はそうじゃない。もっと別のことで評価して欲しい。
歌も詠めるし、この前、買った青磁のセンスがいいと評判なんですよ……そうなっていったのが時代の進歩なのです。
ルッキズムなんてまるで言論封鎖だ。
そう嘆く前に、評価する基準が進化し多様化するからこそ、ルッキズムは廃れていったのだと歴史から学ぶことができるのではないでしょうか。
あわせて読みたい関連記事
-

鎌倉武士たちの憧れだった畠山重忠|時政と牧の方にハメられ悲劇の最期
続きを見る
-

婚約相手は頼朝の娘で父は義仲|なぜ木曽義高は無情に討ち取られたのか
続きを見る
-

安房に逃げ落ちた頼朝を救った千葉常胤|幕府設立を支えた武士は大往生
続きを見る
-

なぜ義経の同母兄・義円は「墨俣川の戦い」で呆気なく討死したのか
続きを見る
-

曾我兄弟の仇討ち|工藤祐経が討たれ源範頼にも累が及んだ事件当日
続きを見る
-

なぜ鎌倉武士は弓矢をそこまで重視した?難易度の高い和弓と武士の関係
続きを見る
絵・小久ヒロ
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
蔵持重裕『声と顔の中世史』(→amazon)
五味文彦『中世の身体』(→amazon)
他






