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【承久の乱は宇治川の戦いに注目】
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中世日本の都市防衛は極めて脆い
画家ベラスケスが描いた作品に『ブレダの開城』という名画があります。
現在のオランダ南部に築かれた城塞都市・ブレダがスペイン軍に陥落されたときの様子を描いたもので、ご覧の通り、絵画の中心に“鍵を手にした人物”が描かれています。
ヨーロッパでは都市が城壁で囲まれ、いざ落城となると、鍵を手渡すことがその象徴とされたのです。
同じことは中国にも言えます。
城門を破壊するための衝車(しょうしゃ)は『三国志』ものでもおなじみの存在ですね。
高い城壁を登る。あるいは地下壕を掘って進撃する。そうした戦術は城の防衛が強固であればこそ発展してきました。
『鎌倉殿の13人』にはこうした兵器は登場しません。堅固な門がないため、必要なかったのです。
都市で防衛すると街が破壊される
では鎌倉時代の武士たちは、どうやって自軍の防衛戦を戦っていたのか?
・天然の地形(川や高低差)を利用する
・橋を落として進路を妨害したり、逆茂木や乱杭を立てて足止めをさせる
・楯で防ぐ
・矢倉(やぐら)や高所から矢を射掛ける
かなり原始的な防衛戦術ですね。
『吾妻鏡』には、梶原景時が防衛もせずに討たれたことを嘲笑う御家人のやりとりがあります。
そこには「橋に関する戦術」として、次のような具体例が記されていたりします。
・橋を落とし、砦を築く
・近隣の小屋を破壊し、橋の上に乗せ、火をつければ橋は落ちる
近隣の民家を破壊して板を持ち、自軍の将兵の盾とする防衛戦術は、『鎌倉殿の13人』の【和田合戦】でも描かれていました。
心優しい北条泰時が民家を破壊するよう命令した場面に、衝撃を受けた方もおられたかもしれません。
しかし、標準的な防衛戦術であり、当時なら自然なことといえます。
ただし、こうした防衛戦術は、事前の準備と都市を破壊する覚悟が必須であり、守る側にしてみれば、都市へ侵入された時点で負けも同然です。
【承久の乱】では幕府軍が果敢に京都へ進軍して参りますが、攻撃を仕掛けることそのものが大きな勝因といえます。
逆に「院宣を出したら御家人たちは心が折れるだろ」と舐めてかかり、心構えに厳しさの無かった朝廷は、最初から負け戦も同然でした。
自ら戦を仕掛けておきながら、もしも幕府軍がやってきたら、テキパキと京都を破壊し、守り抜く気力が後鳥羽院にあったかどうか?
実際に激しい市街戦となった【和田合戦】を経験済みである幕府軍の方が圧倒的に戦い慣れていました。
防衛機能のない御所
街を取り囲むようにして城が築かれた城塞都市。
そうした防御施設がほとんど発展してこなかった中世日本では、ならば住居はどうだったのか?
というと防衛を考えていたとは到底思えない造りです。
『鎌倉殿の13人』の場面や、当時の絵巻物をご覧になられてもご理解いただけるはず。
高低差は言うに及ばず、強固な門構えや施錠も無いような構造。
武士の館であっても防御力は低く、簡素な掘はあっても、戦国時代の城やその周辺に備えられた住居と比較しても非常に脆い。
ましてや当時の院がおわす御所にそんな設備があるわけないのです。
いざ【承久の乱】が始まり、幕府軍に敗れて撤退してきた藤原秀康や三浦胤義を後鳥羽院はすげなく追い返しています。
あまりの塩対応にリーダーとしての資質が疑われる場面ですが、防御力がない場所であれば仕方がないとも言えるでしょう。
かつて高度経済成長期の日本では、全国で“なんちゃって天守閣”が流行しました。
時代考証をふまえたら、当時あるはずもない構造物が城跡に建てられ、観光スポットとしてアピールされたのです。
日本民話のアニメーションや絵本でも、多くが戦国時代あたりの感覚で「むかしむかしの日本」を描いてしまいました。
そうした刷り込みもあり、それ以前の日本がイメージしにくくなってしまいました。
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